【前回記事を読む】藩主に愛されすぎて、藩主が徒歩でも籠に乗っていた神童とは…12歳にして唐詩百首を暗誦し、俸禄も与えられ…
春の記
2021.1.23
大村藩つながり、松林飯山―楠本正隆―岡鹿門(千仞)
大村藩
1867(慶応3)年―1月3日、佐幕倒幕、両派の対立抗争、「小路騒動」おこる。
大村藩倒幕派の中心人物、針尾九左衛門と松林飯山が、新年登城の儀の帰り道、反対派の刺客に暗殺される。
松林飯山の28歳という若すぎる死、恩師の死に五教館の生徒は、犯人逮捕を誓う。
3ヵ月後、兇行の一味25人を逮捕、切腹あるいは処刑した。この血の粛清によって、大村藩は挙藩勤皇の一途を進むことになった。
その頃、岡鹿門は、松本奎堂・松林飯山2人の盟友を喪い、仙台に帰る。
1868(慶応4)年―1月、鳥羽伏見の戦い。戊辰戦争はじまる。
勤皇の岡鹿門は奥羽越列藩同盟に反対して、官軍の伊知地正治参謀と会い終戦を画策、藩政執行官の怒りにあい投獄される。まもなく、仙台藩は官軍の猛攻に敗れ、鹿門は釈放される。
獄中で福沢諭吉「英国議事院談」を読み、議事院を開くよう建言し藩政の立て直しに参画する。やがて上京して官途につくが、藩閥政府の元では志を得ることが難しかった。
この年の秋。楠本正隆は大村藩剣術師範・斎藤歓之助と上京。徴士※1に選ばれ、長崎裁判所判事・九州鎮撫使参謀助役を兼任する。
1869(明治2)年―6月、江戸城にて論功行賞。まず薩摩・長州は十万石、土佐は四万石、それについで二万七千石の大村藩は三万石を得る。
――幕末各藩の例に漏れず、勤皇・佐幕対立の鋭かった大村藩の動向を真に勤皇の一途に決定的ならしめたものは、実に、飯山の死にあったといはれるが、これを春秋の筆法をもっていえば、飯山の死が、この西陲の一小藩を薩長土に伍する勲藩たらしめたといふことができよう(「双松岡」)。