1870(明治3)年― 岡鹿門、大学中助教を拝命、東京へ。太政官修史局協修、東京府書籍館監事など漢籍の収集に当たる。

1872(明治5)年―楠本正隆、新潟県令。地方行政において活躍。

1877(明治10)年―廃藩置県。
このとき大村藩のみ、藩の負債を新政府に付すことがなかった。
参政・楠本正隆の財政整理よろしきを得たためという。楠本は、東京府知事に任命され、5年間務める。
西南戦争。最大の士族反乱。私学校生徒熊本鎮台を攻撃したが、鎮圧され、西郷隆盛も城山で自刃。

1878(明治11)年― 3月、岡鹿門は東京府書籍館(とうきょうふしょじゃくかん)に「傭」として採用される。
――『飯山文存』の刊行は、東京府知事・楠本正隆が企画、千仞(鹿門)に手訂本及び遺稿を付し論定せしめた……飯山の遺稿が二人を知己にした(「岡千仭と王韜」1976国立国会図書館)。

1879(明治12)年―4月、岡鹿門は東京府書籍館・幹事(館長に相当)に就任。
この人事には東京府知事・楠本正隆の意向があるとも。その訳は、楠本は松林飯山と同じ大村藩出身で同志でもあった。その飯山と岡は昌平黌以来の友人、双松岡の盟友である。松林飯山、不慮の死から12年、不遇であった鹿門を楠本がひっぱりあげた。

1881(明治14)年―岡鹿門、病気のため退官。私塾経営にあたる。
漢学塾、綏猷堂(すいゆうどう)は東京芝愛宕下の旧仙台藩邸にあり、全国から若い俊秀が集まり、3000人を超えたという。

1882(明治15)年―戊辰戦争で薩長軍とともに各地を転戦した大村藩主・大村純煕(すみひろ)、死去。享年57歳。

1902(明治35)年―楠本正隆死去。享年64歳。

1914(大正3)年―岡鹿門(千仞)死去。享年80歳。