『ふたりの旅』

8,まだ見ぬ朝へ

 胸のあたりに、ちいさな違和感をおぼえたのは、たまたま下着をかえたときだった。

  ほんのわずかに、いつもとちがう感触。

  かたくて、冷たくて、なにかがそこにあった。

 たったそれだけのことだったのに、千尋の中には、音もなく小さな波がたった。

  あの日から、眠りが浅くなった。

  台所で立ったまま、手をとめてしまうことが増えた。

  そして、気づかないうちに、胸に手をそえているじぶんがいた。

 ——これは、なにかが変わる合図なのかもしれない。

  どこかでそう思っていた。

 病院での検査。

  長い針が身体にさしこまれる感覚。

  終わったあとも、胸の奥には、なにかがまだ残っているようだった。

 検査結果を聞きに行く朝。

  駅のホームで、千尋は秀樹とならんで立っていた。

  いつもどおりのジャケット。いつもどおりのカバン。

  でも、その横顔には、いつもより深いしわが見えた。

 電車にゆられながら、千尋は窓の外に目をやった。

  うす曇りの空。畑の上を、風がとおりぬけていく。

 「こわい?」

  秀樹が、ポツリと聞いた。

  千尋は、すこし間をおいて、コクリとうなずいた。

 「うん、こわい。でも……もういいかな、とも思ってる」

  「なにが?」

 千尋は、うまく言葉にできなかった。

  それでも、言わなければ終われないと思った。

 「わたしね、自分のこと、ずっと許せなかったの」

  「わがままで、不器用で、ひとの顔色ばかりうかがって……あなたのことさえ、ちゃんと好きって言えなかった」

  「この歳になっても、こんなふうにしか生きられないなんて、みじめだなって思ってた」

 電車は、しずかに走りつづけていた。

  秀樹はなにも言わなかった。ただ、千尋の手をそっとにぎった。

  その手のあたたかさは、思っていたよりも強くて、どこかふしぎなやさしさがあった。

 病院に着くと、ロビーにはたくさんの人がいた。

  椅子にこしかけると、千尋のこころはまた、しんと静まっていった。

 結果は、まだわからない。

  いい知らせかもしれないし、そうでないかもしれない。

 でも、いまはふしぎと、落ちついていた。

 いままで、なにかをこわがるたびに、いつもことばを飲みこんできた。

  ことばにすれば、形になって、形になれば責任が生まれる——

  そんなふうに思っていた。

 でも、もう、黙っていてははいけない。

  黙ることで、自分自身を傷つけてきたことに、ようやく気がついたから。

 千尋は、となりにいる秀樹を見た。

  これまで、彼をちゃんと見ていなかった自分を、ようやく赦せる気がした。

  そう、わたしはずっと、どこかでだれかの許しを待っていた。

  でも、いちばん赦してほしかったのは、自分自身だったのだ。

 名前を呼ばれた。

  ふたりはゆっくり立ちあがった。

  診察室の扉のまえで、秀樹がそっと千尋の手をにぎった。

 「行くか」

  その一言に、千尋はうなずいた。

  こわさも、不安も、ぜんぶここにあるままでいい。

  それでもいま、わたしたちは、いっしょにいる。

 ——成田で言えなかったことも、たしかにあった。

  でも、ことばにできることが、まだのこっている。

  そのひとつひとつを、これから、ことばにして生きていくのだ。

 新しい扉がひらいた。

 

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