『いつか遠くへ』
11.
街灯の明りが灯り始めると、駅前の人出は次第に増えてきて、いつの間にか人の流れの中に二人の姿も埋没するようになった。やがて夜の帳に包まれると、灯火に浮かび上がる笹飾りが幻想的な世界を醸し出す。
七夕祭りの駅筋を過ぎて少し先を歩けば街並み保存地区がある。数年前に保存地区に指定されたということで、まだ観光向けの手など殆ど入っていないが、江戸情緒を感じさせる静かな通りだった。目立った案内板もなければ人通りも全くない。朽ちかけた大看板や店先の袖看板、そして錆びついたレトロなブリキの看板がぼんやりと赤い街灯に照らされて、中二階の障子戸が何か懐かしく、まるで幻想の中に引き込まれるような、そんな街並みだった。
行き交う人もいない通りを二人で歩きながら、ふと似た光景を思い出した。
外回りの仕事中に、違う世界に迷い込んだあの時の光景だ。あの時見た街並みも、気がつくと古めかしい、でも何か懐かしい、そんな空気に包まれた通りだった。あの時は仕事中だったし、すぐに元来た道に戻ったが、今度こそこのまま歩いて遠くの世界に行ってしまおうか。そして真維子と二人で、どこか遠くで新しい生活を始めようか……。
そんな気にもなった。
肩をくっつけるように通りを歩きながら、とめどもない話をした。利也くんのこと、会社のこと、分かれた旦那のこと、私の家族のこと、病気の父親のこと、そしてまた利也くんのこと。彼女は、自分の思いを素直に話してくれた。随分と長く話をした。
そして、彼女の言葉が急に止まった。
暫く言葉がなくなった。何かを考えているようだった。
「そうだわね…」
やがてポツンとそう言った。
「やっぱり利也を置いて東京にはいけないよね。これからの暮らしのことはなんとかしなくちゃいけないけど。私、やっぱりここで頑張る。利也のそばでいつも笑っていたいもの」
「そうか、利也くんにとってはそれがいい。かけがえのないママだものな。やっぱりそばにいてあげるのが一番だ。なに、世間の噂なんて一時のものさ。君と利也くんのことを心配してくれている人も結構居るみたいだしさ。『女性は弱し、されど母は強し』と言うじゃないか。君の場合は、『女性は強し、そして母になってさらに強し』だけどな。でもね、人間って時には弱さを見せることが必要だぜ。一人でしょい込んじゃ駄目だよ。君は決して一人じゃない。困ったときはいつでもSOSを出していいんだ。俺に連絡をしてくればいいんだ。溜まった不満の捌け口はいくらでも引受けようじゃないか。いつでも飛んでくるから」
「まあ、無理なことを言ってくれるわね。あなたのように忙しい人が、そんなこと出来っこないわよ。でも、そういう風に言ってくれるのって嬉しいわ」
何時にないしんみりした口調で彼女は話した。
「ありがとう。でも私、もう弱音を言わないわ。愚痴を言ったら余計に落ち込むだけよ。だいじょうぶ、私には利也がいるんだから」
「そうさ。利也くんのためにも頑張んなきゃ。君の場合、その頑張り過ぎる性格が大問題なんだけどな。昔からそうだったけれど、何でも自分で解決しようとするその性格、それが問題なんだ。苦しい時って、誰だって弱音も言いたくなるものさ。繰り返して言うけれど、弱さを見せることも必要だぜ。SOSを出して周りに助けてもらうことも必要。我慢することはないだろう。我慢せず、周りの人に思いっきり愚痴を吐き出していいんだよ。一人っきり、部屋の隅でボソッと小さく愚痴ってなんになるんだ。大声で愚痴ってみろよ。俺は構わない。会社だって家だっていい。電話してくれ。いくらだって聞く。何なりと連絡してくれていいんだからね」
「そうね、そうよね。あなたの言う通りだわ。ありがとう。今日は来てくれて本当に嬉しかった。本当にありがとう。おかげでこれまでの溜まってた不満をすっかり吐き出せた。色んな悩みを聞いてもらって、随分気持ちがすっきりしたわ」
数百メートルの古い街筋を何度繰り返して往復しただろう。
何度目かにさしかかったとき、真維子は急に歩を止めた。
「実はね、さっき貴方が利也のバギーを押す姿を後ろから見ていたでしょ。貴方の話しかける声と利也の声と。それはそれは嬉しそうな声だったの。その時、私考えたのよ。やっぱり父親って必要よね。米田と私とはこれから先もまず溝が埋まらないと思うわ。でも、利也にとってみれば父親なのよね。米田は掛け替えのない身内なのよね」
そうだ!君だけで背負い込んで良い問題じゃないんだ。利也君のお父さんと、利也君のお母さんと、両方が一緒になって利也君のことを考えなくては。
そう言いたかったのだが、私が言わずともそのことを彼女自身が見出したようだった。
「父親と子供の時間も大切にしてあげなくちゃね。親権がどっちだってことなんて、親の勝手な理屈なのよね。利也も成長すればするだけ、ますます父親の存在が必要になってくるわ。米田と会って、もういっぺん子供のことについて話し合ってみようと思うの。あれだけ調停のときに反対しておいて今さら、と思われるでしょうけど、一年に一度だって二年に一度だっていい、利也に会ってやって欲しいって」
「それがいいだろうな。いや、それがいいんだよ。米田さんもきっと分かってくれる。話してみたことはないが、米田さんもお姑さんも、きっと利也くんのことを大切に考えてくれると思う」
「そうかもね、きっとそうよね」
「そうさ、子供のことを思わない親なんていない。色んな家族があるさ。でも、親子ってどうなっても親子なんだ。親権がどちらかなんて、養育費がどうだなんて、利也くんにはどうだっていい話だ。二人とも親に変わりは無いんだから」
「分ったわ。もう私一人の思いで息子を不幸にはさせない。頑張ってみる。利也のためにも、もっともっと強くならなくちゃ」
「君の、その強くならなくっちゃは気になるけれど、でも、利也君のために前向きにならなきゃ」
夜行寝台の停まる駅まで行くのには、そろそろ限界の時間になった。既に七夕祭り会場の人出も少なくなり、駅前は薄暗かった。それでも彼女の表情の中に此れまでとは違った強い気持ちを感じ取れた。
「ねえ。もう、これっきりにしましょう。私、頑張れる間は貴方に連絡を取らない。でも、連絡のない間は私も頑張ってるんだと思って安心して」
少しの間真維子は黙って、駅前通りのぼんやりした明かりを見つめていた。
「じゃあ、ここでお別れ!」
突然言った。喫茶店の前だった。
「列車の時間までまだ少しあるけど、私もう帰るわ。此処でさようならよ。だから貴方も頑張って」
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