「あのね、あと一回会えないかな」

勇気を出していってみた。また左耳を愛でていたらしい速水は、さも驚いたように目を見開き、ストローから薄い唇を離した。

「どうして?」

「あの、あのね、私、来週、誕生日なの」

「えっ、そうなんですね!」

驚いているものの、じゃあ会おうとはいってくれない。どうしてよ。ほのかは意地になった。

「せっかくの誕生日なのに夫はその前日から出張で」

はっと口を押さえた。余計なことをいってしまった。誘っているようなものじゃないか。すると、速水は大仰に首を振った。

「ごめんなさい。もう約束してる。彼女とここで」

「ここで!」

驚いたことに速水の彼女もこの町に住んでいるのか。

「君は彼女公認なんだ。しばらく別の耳を借りるかもといったら快く頷いてくれた。そして、嫉いてしまうから覗きには行かないわって」

速水は見たことのないようなはにかんだ笑顔で甘いドリンクをすすり終わった。

「じゃあ、これで」

今日に限って彼のほうが先に立った。逃してはだめ、私の癒しのひと時とこの男を。

気がつくと高そうなスーツの肘のあたりをわしづかみにしていた。知り合いが見たらなんというだろう。構うものか。

ところが速水はすっと身を離した。

「ほんとうに今まで有難う」

「お願い」

「……だめだとは思うけれど、右耳をよく見せて」

ほのかはわけもわからず速水に右顔を傾けた。速水は深いため息をついてつぶやいた。

「やっぱり全然違う。ときめかない。きみは来週には35になる。今の状況とは違ってくるんだよ。君の左耳ならなんとか代用としてごまかせたけれど」

わけのわからない辛辣なことを言って、先に背中を向けて一度も振り返らなかった。店内の目も気になったけれど、座り直したきり、しばらくほのかは立ち上がれなかった。

やめようやめようと思いながら、ほのかは始終、カフェに立ち寄った。時間はほぼ夕方。そして、10日後。彼を見つけた。

見かけたことのある深いグレー系のスーツ。そしてよく手入れのされた靴。彼の前にはキャラメルソースのかかった相変わらず生クリームたっぷりのラージドリンク。どうやら座ったばかりのようだ。誰かを待っているかのようにきょろきょろと落ち着かない。

次回更新は10月1日(木)、20時の予定です。

 

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