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第二章 藩主慶邦の苦悩
二 仙台藩の迷走
また養嗣子問題も重要であった。特に江戸時代中期から、各藩は世継ぎに悩んでいた。これは当時の食生活や運動不足によると思われ、大名ばかりか上級武士家の子女が虚弱であった。
そのため頑健な子の出生が少ない上、夭逝の例が多かった。親戚縁戚から養子を望んでも、それが得られるか問題である。世継ぎを得られない場合、藩の存続にかかる問題になる。
慶邦の正室には子がなく、側室の子も相次いで夭折していた。
この後、藩主慶邦は、元治元年(一八六四)二月九日、江戸に出た。この時将軍家茂が、横浜鎖港問題で上洛中であり、幕府内部に緊張感がなかったこともあり、慶邦には目立った動きがなかった。
一方で官位昇進の話が持ち出されたが、これを固辞し、五月二十八日、またもや藩財政に余裕がないことから匆々に帰国の途に就いた。
仙台藩は、終始、因循姑息であった。藩主慶邦自身果断な行動を取れないことに苛立ちがあったろう。
しかし、仙台藩には伊達騒動といわれる寛文一一年(一六七一)三月の寛文事件に対する、幕府への義理立てがあった。
また、財政困難により幕府からたびたび借金していたことや、断ち切れない縁故関係などから、佐幕から離脱できなかった。これは一門を始め門閥衆の保守的空気が大勢を占めていたことによると考える。
三 激流
元治二年四月七日、慶応と改元。その頃幕府は、英、米、仏、蘭四カ国と長州との戦争による償金問題を抱えていた。また長州が反幕の態度を示すようになっていた。
そのため幕府は、長州再征を決した。仙台藩は、江戸の留守警護を命じられ、藩主慶邦が慶応元年(一八六五)、五月十五日に出府した。
まもなく領内に農民騒動が発生したことを理由に九月十二日、帰国の途に。替わって坂英力(一族・黄海五百石)を奉行に任じ、嗣子茂村に同行、出府させた。
この頃の仙台藩の行動は、江戸在府にしても財政困難を理由にすぐ帰国するなど、朝廷側に就くのか幕府を支えるのか判然としなかった。
これが士道に悖(もと)るとの批判があった。