当時、どの藩もが苦しかった。会津藩の場合も同様に苦しかったが、歯を食いしばって徳川家に殉じた。それがその後人々に会津士魂と同情、賞賛された。
仙台藩人士は、藩祖政宗以来の奥州探題、或いは奥州王をひそかに自任していた。また藩主慶邦は、公議政体論者だった。
勤王、佐幕のいずれにも与しないなら奥羽同盟の構想のもと奥羽諸藩の動向を取りまとめる気構えを示すべきであった。明治元年(一八六八)五月三日に奥羽越列藩同盟が成立しているが、これは遅すぎた。
藩主慶邦について、評価できることが何もなかったとの評がある。一方で当時の大名のよくある「そうせい」ということがなく自分の意見を述べる人物ともいわれている。何もしなかったとのことを藩主一人に責任を負わせることはできない。
慶邦は、義兄斉邦が夭折(二十五歳)したことから天保一二年(一八四一)九月七日、十七歳で藩主を継いだ。当時、凶荒で余裕のない状態であった。さらに君側に優れた人物もいなかったので経綸を培う暇がなかった。そのため老臣任せになっていた。
その一つは、代替わりを家臣領民へ披露した際、天保七年の大凶荒直後で四民がまだ露命をつないでいる状態にあり、藩財政も破産の危機をはらんでいる中で莫大な費用をかけることにひんしゅくし慨嘆する。そして上層部に優れた人物がいないとの非難があった。
また慶邦は、正室の近衛忠煕の養女・鷹司政煕の二十四女綱姫が、嘉永五年(一八五二)一月二十一日に没。次いで徳川斉昭九女八代姫と婚姻、明治二年(一八六九)十一月十七日、綱姫との間に子がなく、側室との間の子も早世しているので養嗣子問題があった。
藩主慶邦について不運な運命の星のもとに生まれたとの同情もある。
長州再征の際における仙台藩一門の意見は、幕府との距離を取るというものだった。これがその後の藩是になった。
帰国した藩主慶邦は、杉山台における洋式調練に臨んだ。また伊達宗賢の提唱をもとに海岸防備を実施し、砲台の構築、軍艦二隻の購入、ゲベール銃を購入などと軍備拡張を図った。
七月二十日、将軍家茂が大坂城で薨去。徳川慶喜が徳川宗家を継承し、長州再征を停止した。
九月八日、朝廷は、国持大名の意見を求めるべく上京を命じた。仙台藩では議論があったものの、藩主慶邦が因循しているので重臣は結論を出せなかった。
結局、但木が名代として上洛することになり、江戸留守居役大童信太夫と一小隊を伴い上洛、十二月一日、京都に到着し中長者町の仙台屋敷に入った。
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