「人間生きてりゃいろんなことがあるさ。悪いことも、ちょっとしたきっかけでひっくり返ったりするもんだ。正直に言うとな、あの日じつは、この望遠鏡を壊すつもりだったんだよ」
「ええ?」
「ほれそこの、バットでな」
濡れ縁の角の足もとに、金属バットが二本、打ち捨てられたように砂埃にまみれて転がっていた。
「そうだったんですか」
水口さんは、見た目と違って熱い性格だったようだ。
「前の晩にフォーマルハウトを見納めて、当日、何度もバットを手に取ってためらっていたら、あの騒ぎだ」
助っ人選手と四番打者の連続ホームラン。その時の光景がよみがえったのか、水口さんはさも満足そうに目尻に皺を寄せた。
「ボールが飛び込んできた時はたまげたが、二度も続いちゃ、これは、やめろと言ってるのかな、なんて気がしてね」
「そうかもしれませんね。不思議なことってあるんですね」
「孫を失った傷が消えることはないが、癒してくれる仲間がいれば、痛みを感じないで生きていける気がするよ。なんもかも空木さん、あんたのホームランのお陰だよ」
「二本目はアツシくんです」
「そうだったな。縁というものは実に面白い」
「そして、素晴らしいですね」
あれ、わたしってこんなキャラだっけ。
人との縁を嫌っていたくせに、するりと言葉が出て驚いた。
もしかしたら、就職が決まった以上の好事が、今のわたしに起きているのかもしれない。違う土俵の人間同士だから垣根が低い、と言えなくもないけれど、それでも偶然が招き寄せた追い風は、きっと最良の方向に吹いてくれると信じたい。変わりつつある自分をずっと見つめていたいし、いつか褒めてもあげたいから。
アツシくんが呼んでいる。また何か、違った天体を望遠鏡の視野に捉えたようだ。
「今度は何を見せてくれるのかな」
水口さんはそう言うと膝に手を乗せて、よっこらしょと立ち上がった。
ユカちゃんに袖を引かれてわたしも腰を上げた。小さな手が、倍以上も体重の違う大きな手を力強く引っ張っていく。
初めて見る顔、顔、顔。その人垣が左右に割れた。
中心で少年が手招いているその人波の中に、わたしは駆けるようにして入っていった。
了
本連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
【イチオシ記事】見つめながら、触れたいという不思議な感情が芽生えた。あの人の体に、頬に、髪に、唇に。緊張感のない弛緩しきった肉体は、無警戒な心そのものだった。
【注目記事】「個人でお金を払うので、また会えませんか?」…返事を待つ。深夜になって、短く悲しいLINEが届いた。
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