【前回の記事を読む】「戸籍には12月1日となっている」…母が語った小林多喜二の誕生日、定説と異なる記録の謎。彼の除籍謄本を見ると……
第3章 誕生日の謎
多喜二の誕生日について「戸籍では12月1日」と但し書きが付いている多喜二研究書もありましたが、大部分は10月13日とだけ書いています。
それに対して多喜二に関する公的な書類では12月1日になっています。
たとえば多喜二が通った小樽高等商業学校は現在の小樽商科大学ですが、この附属図書館に資料展示室があります。ここに卒業を控えて大正13年(1924)に書かれた「卒業生徒銓衡(せんこう)表」が展示されています。
年齢の欄には「明治36年12月1日」と記載されています。これには兵役関係として陸軍歩兵補充兵ともあります。満20歳になった時に懲役検査を受けたのでしょう。
また第10章で示しますが、多喜二の印鑑証明に書かれている生年月日も明治36年12月1日です。
昭和4年(1929)の「文章倶楽部」の新年号に「自分の中の会話」が掲載されました。これには多喜二の誕生日について何も書かれていませんが、推敲の段階では書かれています。
平成23年(2011)に「小林多喜二草稿ノート・直筆原稿1」というDVDが発売されました。日本共産党が所蔵している多喜二の草稿ノートの全ページを収めたものです。
私はその中の「蟹工船」の草稿ノートをマウスでスクロールしながら眺めている時に、推敲中の文章を見つけました。
「蟹工船」を書き終えた後にず~っと白紙のページが続き、ノートの最終ページに推敲中の「自分の中の会話」がありました。
実際のところは「蟹工船」を書き始める前に、用意したノートの最終ページに書いたものと私は考えます(第10章・第17章参照)。
この推敲中の文章には「戸籍上の誕生日は明治36年12月1日である」とか「両親は新暦を知らなかった」と書かれています。
これらは「文章倶楽部」に発表された最終稿では削除されています。