【前回記事を読む】突然の解雇だった。濡れ衣を着せられ、妻子もいるのに――大使館の現地採用スタッフが、いつも理不尽に解雇されている現実
第一章 ジンバブエ
ブラワヨへの旅
あれは一九八八年のことだった。セコンダリー・スクール(中・高等学校)卒業と同時に、十七歳でメキシコ大使館にローカル職員として採用されて働き始めたが、わずか一年も経たないうちに大使館が突然閉鎖されたため職を失った。
幸いにもその後、大使館からの紹介で、日本大使のプライベート・ドライバーとして働き口を得ることが出来た。メキシコ大使館でのドライバー兼メッセンジャーとしての仕事ぶりが評価されたからだった。
当時仕えた唐沖(からおき)大使は六十歳で大使夫人は三十代半ば。二人には四歳の子供があった。ミカの仕事は昼間この四歳の娘の幼稚園への送り迎え、そして夜には、大使夫妻をカラオケ・パーティーへ送り迎えすることだった。
大使は豪放磊落な巨漢で、大まかで自由で、夫人は美しく華やかだった。女児は愛くるしく、幸せな家庭の姿に接したミカは、この仕事についたことを嬉しく思っていた。
カラオケという言葉を知ったのもこの時だった。娘の幼稚園仲間の両親や外交団の大使夫妻や、ジンバブエに住む白人やビジネスマン夫妻たちをも巻き込んで、毎晩のようにどこかの家でカラオケの宴が開かれた。
大使の得意は軍歌だった。朗々とした声が(旧)公邸の安普請の壁を振動させて、それは家の芝生を越えて夜の空へと消えていった。
夫人は英語を話さなかったが、公邸でカラオケ・パーティーがある時には家に集まるゲストを優しく、静かにもてなした。
二年の月日がまたたくまに過ぎ、任期を終えた一家が帰国することになった時、大使はミカの勤務態度を認めて、正式に日本大使公邸のスタッフとして雇い入れる手続きをした。そして日本大使公邸でのハウスボーイとしての生活が始まったのだった。
次に着任した降米(ふりごめ)大使夫妻はかなり年配だった。六十歳を越えた夫妻のようだった。
「ようだった」というのは、この夫妻との間には全く会話がなかったのだから、解りようもなかった。
話をしない夫妻とは交流も少なく、必要な仕事は、身振り手振りの末やっと理解して、用事をこなすのが精一杯だった。
大切なことや細かいことになると、意思疎通は難しかった。もちろんそのような具合だったから、自己判断するしか方法が無く、その結果間違いも多かった。
間違ったことをすると大使からも、夫人からも厳しく叱られた。叱られかたは、すごかった。そんな時、夫妻にとって自分自身の存在は昔ながらの奴隷であることをつくづく思い知らされる惨めな瞬間だった。