【前回の記事を読む】「さっきまで後ろを走っていたのに」妻と対向車、衝突の瞬間は一瞬だった。喪失感から、もうハンドルを握れなくなり…
備忘録
妻のDNA検査を踏まえて、妊娠時のリスクを事前に処置した結果、十月十日(とつきとおか)の妊娠期間を経て出産できた。
名前は、シミュレーションの中で妻が選んだ『心春』にした。
心春は紛れもなく、妻と俺の遺伝子を継いだ娘だということもわかった。
震災を避けるため、出産後は妻を実家に疎開させた。幸い、何も厄災は起こらず、無事に過ごせた時の安堵は言葉にならなかった。
それでも、不意に健康不安や事故、あの震災の光景がフラッシュバックのように蘇る。生活習慣を変えれば虚構の記憶も消えると思ったが、十五年経った今も完全には消えない。
家族は、それを『大いなる勘違い』と冗談交じりに受け止めてくれる。そのおかげで暮らしやすくなったのは確かだ。シミュレーションで痛感したのは、事実そのものではなく、それをどう捉えるかが人生の幸不幸を左右するということだ。
独身に戻った人生にも、二人だけの人生にも、血の繋がらない子との人生にも、それぞれの喜びがある。
俺は胸を張って言える。たとえ血が繋がっていなくても、娘は愛おしい我が子だ。
今日もまた、愛おしい家族と食卓を囲んだ。
妻と娘の寝息を聞きながら目を閉じた。
エピローグ 愛された記憶の行方
「おはようございます、加藤さん」
優しい女性の声で目を覚ました。
「昨夜は久しぶりに熟睡できたようですね。幸せなご家族とのシミュレーション、いかがでしたか?」
視界に広がるのは白い天井。カーテンで仕切られた無機質な部屋。機械の音、薬品の匂い。腕には点滴が刺さり、手の甲には、染みと深い皺が刻まれていた。
ゆっくり身を起こし、手鏡を覗くと、そこに映っていたのは、八十を超えたかのような老人の顔だった。髪の毛のない頭皮は鈍く光り、かつての自分の面影はどこにもなかった。
看護師は、簡易テーブルに朝食のトレーを静かに置いた。それは、妻が作ってくれた料理の匂いとはまるで違う、食欲をそそらない流動食ばかりだった。
「加藤さん、ご希望があれば、また新しい体験を味わっていただけますので、お申し付けくださいね」
看護師は優しく語りかけた。
「加藤!? 私の名前は、柴田淳太ですよ」
かすれた声で抗議すると、彼女は、点滴を交換しながら呟いた。
「どっぷり幸せな記憶を体験できてよかったじゃないですか」