プロローグ
一星さえも見えない漆黒の闇の中、一隻の船が東シナ海の荒波に翻弄されながらも、確実に九州を目指して進んでいた。船倉には三百人程の男女がじっと寡黙に揺れに耐えている。何という忍耐力だ。時々聞こえる乳飲み子の高周波の鳴き声と船がきしむ低周波の音が奇妙なアンサンブルを醸し出している。
突然団体の長(おさ)らしき男が演説を始めた。
「我々は今、日本という国に向かっている。仲間たちはすでに長年かけて華僑という確固たる社会的地位を世界各地に築いてきた。日本でもそれを築かなければならない。
皆すでに学習した通り、日本は江戸時代から明治への変革を果たして半世紀近くが経ったが、まだまだ政情は混乱している。侵蝕していくには絶好の機会である。上陸地点は九州の徳渕(とくふち)の津(つ)という港だが、上陸後の掟を今伝えるので必ず守れ」
全員が耳をそばだてて話を聞いている。長は続けた。
「上陸後は団体行動をしてはならない。組別に八方に散らばり日本人になりすませ。
日本語はしっかり勉強した筈だ。そして上陸したのは中国の河童との流言を撒け。劣等な日本人と交わってはならない、優秀な漢人の血を守れ。何かあったら徳渕の津に来ればよい。誰かがそこにいるはずだ。では健闘を祈る」
船は有明海に入り、漁火のようにゆらゆらと揺れる不知火(しらぬい)に導かれて、密かに小さな港に接岸した。この船の中に、やがて熊本の夜を照らす二つの命の灯が揺れていた。
一、 五木村は霧に揺れて
拾われた身だから「ヒロ子」と名付けられたとあとから聞いた。育った村は五木村(いつきむら)といい九州山地の傾斜地にある寒村である。
高倉ヒロ子の家はこの地の段々畑で稗(ひえ)を作って細々と生計を立てていた。生まれた場所はわからないし、どうやってここに来たのかも知らない。物心がついた時には彼女はこの村の高倉家の長女になっていた。
その後、弟の儀作と妹のハルも生まれたが、だからといって父母の態度が変わった訳ではなく、全く分け隔てなく本当の姉弟妹のように育てられた。