西南戦争
明治6年の征韓論の対立が、明治10年の西南戦争へと続く。その原因は、発展してゆく中央政府と、西郷とその私学校の古きを守ろうとする間に醸し出された矛盾対立が、遂に爆発したのである。直接の原因は、内務省発動による鹿児島県の役人の転免である。
明治9年7月、大久保は鹿児島県令、大山綱良[注6]に上京を命じ、参事課長以下の更迭を命じた。そして、私学校系の官吏を一挙に更迭し、他県並みにしようとした。木戸孝允の勧めでもあった。
この時、鹿児島県立病院の院長であった、サトウの盟友ウイリアム・ウイリスは鹿児島を離れ上京し、やむなく日本を去ることになる。
丁度サトウが賜暇を終え、日本に帰る途中で、英国公使パークスの依頼があったのだろうか、長崎から鹿児島まで歩き、西郷隆盛の出立を見届けたウイリスとその家族を東京に避難させた。
[注1] 板垣退助(いたがきたいすけ)
土佐藩主山内容堂(豊信)の側用人、討幕派の土佐藩士。明治4年参議、後藤象二郎らと民撰議院建白書を政府に提出、愛国公党や立志社を設立、自由民権運動の先頭に立つ。明治14年自由党の総理に就任、後の第二次伊藤内閣、第一次大隈内閣の内相を務めた。
明治2年明治新政府の参与となり征韓論を唱え、西郷隆盛らと共に下野、その後は国会の開設を求め、自由民権運動を展開する、岐阜で演説中刺客に襲われ「吾死するとも自由は死せん」の言葉を残す。
[注2] 江藤新平(えとうしんぺい)
佐賀藩士、維新後、司法卿として司法制度の確立に努める。参議となり、西郷隆盛らと征韓論を唱えたが、敗れて辞職し、板垣らと民撰議院設立の建白に携わる。のち、不平士族を率いて佐賀の乱を起こし、捕らえられて明治7年刑死。
[注3] 榎本武揚(えのもとたけあき)
幕臣、長崎海軍伝習所に入所、文久2年オランダ留学、明治元年海軍副総裁、函館五稜郭で官軍に抵抗、黒田清隆の庇護の下、北海道開発に従事、明治7年海軍中将兼駐露公使、駐清公使を経て第一次伊藤内閣逓相、黒田内閣農商務相、第一次山縣内閣文相、第一次松方内閣外相。
[注4] 筒井政憲(つついまさのり)
江戸時代後期の旗本、伊賀守、長崎、南町奉行。大目付を歴任。
[注5] 川路聖謨(かわじとしあきら)
幕末の旗本、勘定奉行。
[注6] 大山綱良(おおやまつなよし)
文政8年樺山善助の次男として鹿児島に生まれる。幼名は熊次郎、通称は格之助。嘉永2年大山四郎助の婿養子となる。
示現流剣術の達人、島津久光の上洛に随行し、文久2年寺田屋騒動では、藩主の命令で過激派藩士の粛清に加わった。
明治元年の戊辰戦争では奥羽鎮撫総督府・下参謀。大山率いる新政府軍は庄内藩に連戦連敗を喫した。
新政府では廃藩置県後に鹿児島県の大参事、権(県)令となり、西郷隆盛らの私学校設立などに積極的に援助した。西郷軍の敗北後、逮捕され刑死する。
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