【前回の記事を読む】岩倉具視ら107名が欧米へ旅立った明治4年、その裏で日本周辺に何が起きていたのか……?

第一章──新生明治

征韓論

日本は、明治元年に王政復古したことを、朝鮮に伝えた。しかしその国書の内容に問題があるとされ、受理を拒否された。この話を原朗著の『日清・日露戦争をどう見るか 近代日本と朝鮮半島・中国』(NHK出版)から記憶を辿ってみる。

『皇』とか『勅』という文字は、宗主国である清国の皇帝だけであり、朝鮮は日本より格下とみなされる。

これに加えて、明治6年に釜山(ぷさん)の日本公館の玄関に日本を侮辱する内容の張り紙が張られた事件が起こった。そして、一向に国交を結ぼうとしない隣国・朝鮮に使節を派遣して開国させようという方針が唱えられていた。

当時の韓国の実権は、激しい欧米嫌いの国王の生父・大院君によって握られており、日本の開国を欧米模倣であると罵り、禽獣に近づいたと云って蔑視していた。

維新政府は宋・対馬守を派遣して、国交を調整しようとしても、相手にされなかった。

ここにおいて、明治6年6月12日、朝鮮問題に対する会議が開かれ、板垣退助[注1]は「居留民を保護するのは政府の義務だから、早速一大隊の兵を釜山に送り、それから談判をやろう」と出兵論を唱える。これに対して、西郷は「それは少し過激だ。それより、平和的に堂々使節を派遣して、正理公道を説き、それで聴かなかったら公然罪を万国に鳴らして討伐すればよい」と述べた。

三条実美は、「大使を派遣するなら、兵を率いて軍艦に乗って言ったらよかろう」と言葉を挟むと、西郷は憤然として、「いや兵を率いて行くのは、所詮穏やかではない。大使たるものは宜しく烏帽子直垂を着し、礼を厚くし道を正さなければならぬ」と反対し、

「この遣韓大使には、ぜひ自分を遣って貰いたい」と提言した。大使になっていけば、韓国は必ず自分に危害を加える。そうしたら立派な征韓の名分が立つと発議した。

同年10月14日、岩倉たち帰朝後第一回の内閣会議で、岩倉は「大使を韓国に派遣することは、大戦争を覚悟した上でなければならん。朝鮮の背後には、支那もあるし、露西亜もある。迂闊に手を出して国家百年の大計を誤ってはならぬ。現状は国力涵養第一、征韓など無策、無謀である」と反対意見を披露した。

同年10月23日、西郷は参議、陸軍大将、近衛都督の職を辞する表を奉り、翌日、板垣、副島、後藤、江藤新平[注2]の諸参議もそれぞれ辞表を奉った。

樺太・千島交換条約

明治8年8月22日、露国との間に、樺太(からふと)・千島(ちしま)交換条約が調印された。日本は樺太全土をロシアに譲り、その代償として千島列島を領有することになり、駐露公使を務めていた榎本武揚[注3]が条約にサインした。

安政元年2月7日、下田で日本側全権筒井政憲[注4]・川路聖謨[注5]と露国特派大使・プチャーチンが調印した日露間の和親条約は、国境を捉択(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島の間とし、露・日両国人が雑居・共有していた樺太は国境を設けない日露通好条約があったが、種々の問題が発生したために、この条約を改定したものである。

江華(こうか)島事件

明治8年9月20日、朝鮮半島沿岸を測量中の日本軍艦二隻に対して、江華島沖で砲撃が加えられる事件が発生した。

これを契機に、日本は朝鮮に対して、開国を迫り、明治9年2月27日、朝鮮は釜山、仁川、元山を開港し、日本の領事裁判権を認めるなど、日本が列強と締結した安政条約に順じた不平等条約を締結した。

[参考:『日英交流史1600-2000 政治・外交Ⅰ』(細谷千博著、イアン・ニッシュ監修、木幡洋一ほか、東京大学出版会、p. 178)]