夏休みが本格的に始まり、茹だるような暑さが続く中、僕はふとした瞬間に昔のことを思い出していた。
「お前、勉強ばかりして何が楽しくて生きてるんだ?」
中学時代、クラスメイトの不良少年に投げかけられた言葉だ。彼に悪意はなかった。ただ純粋に、僕という人間が不思議だったのだろう。
すぐに先生がやってきて「成績優秀な君への妬みだから無視しなさい」と僕を庇ったが、僕は何も言い返せなかった。先生の言う通り僕は成績優秀だったが、人生を謳歌しているのは、間違いなく怒鳴られてもなお笑っていた彼の方だったからだ。
そんな『理由のない勉強』を続けてきた僕と違い、彼女は母の支配を逃れようと『自分の意志』で外の世界を見つめていた。その小さな、けれど熱い光を目の当たりにした時、僕の中で長年凍りついていた何かが音を立てて軋んだ。
「御幸くんは、好きな人っていないの?」
不意に、別の記憶が層をなして重なる。
かつて告白してくれた女の子に、僕は「お金がないから付き合えない」と突き放すような返事をした。誰かと下校するだけで「自分だけ幸せになろうとするな」と母に罵倒されたあの日から、僕にとって『誰かを想うこと』は罪悪感とセットになっていた。
街中のカップルを羨む気持ちさえ殺し、仲睦まじくしたいという感情すら失くしてしまった僕。
そんな僕が今、波瑠さんの『秘密』を守りたい、彼女の夢を壊させたくないと強く願っている。
3時間の指導を終え、重い扉を閉めた僕を待っていたのは、廊下の陰に立つ波瑠の母親だった。
彼女は僕の顔を見るなり、汚物でも見るかのような蔑みをさらに鋭く研ぎ澄ませて口を開いた。
「……お疲れ様。平御幸くん。改めて言っておくけれど、あなたはただの家庭教師。勘違いしないでちょうだいね。」
彼女の視線は、娘の部屋の扉ではなく、もっと遠くにある『世間』という名の巨大な怪物を追いかけているようだった。
「なぜ、そこまで娘さんを医者にさせることに拘られるのですか? 晴翔さんが医者の道を進もうとしているからですか?」
僕が静かに疑問をぶつけると、彼女は氷を噛み砕くような冷徹さで短く吐き捨てた。