天才の軌跡 チャールズ・ディケンズと悪の萌芽

父は出獄して間もなく、ディケンズをまた、学校に入れている。そして三年の後、彼はこの学校を終えて、法律事務所に下働きとして勤めはじめた。彼が十五才の時である。

入獄中に父はその職を失うこともなく、なぜか、その期間中も給料は支払われていたらしい。しかし彼はまもなく、海軍の主計局から年金をもらって退職し、年金をおぎなう意味で議会の速記者となった。

この職の給料は、議会の開催中だけということではあったが、法律事務所で働くよりも数倍もよかったので、ディケンズも速記を勉強し、速記者として、弁護士のために、法廷において速記を始めた。彼が十七才になろうとする頃のことである。

十八才になるとすぐ彼は英国博物館から書物を借りて読むことを始めている。またこの頃、銀行家の娘と知り合い失恋したという。

二十才になると彼は母方の伯父が始めた議会の逐語的な報告をする、ミラー・オブ・パルリアメント紙の速記記者となり、まもなく、夕刊のトルー・サン紙の記者も兼ねることとなった。

彼の処女作は二十一才の時に月刊誌に投稿した『ポプラ通りでの夕食』である。この月刊誌に、さらに数作を発表し、人気が出はじめ、『ボズのスケッチ』及び、『ピクウィック・ペイパーズ』によって一躍流行作家になったのは以前に述べたとおりで、これ以降の業績についてはよく知られていることと、ここでの論旨とはあまり関係がないので省略したい。

彼は子供時代の苦労を自身の家族にさえ話さなかったという。彼が靴墨工場で働き、父が入獄していたことを打ち明けたのは彼の親友のジョン・フォスターだけであった。これも非常な逡巡の後にはじめて打ち明けたのである。彼はこの経験を大変恥ずかしいと思っていたからである。

彼はこの親友のフォスターに、父について次のように言っている。

「しかり、私の父は、誰よりも親切で気前のいい人だ。彼の妻、子供、あるいは友達が病気や難儀に会う時の彼の行為は、私の覚えているかぎり、賞讃せずにおれないものがあった。私が病気になった時、彼は傍で子供の私を夜昼うまずたゆまず看てくれた。彼が何か事を始めるとか、預かりものをするとか、信託を引き受けた時は熱心に、良心的に、正確に、節義を正しく遂行した。彼は私を彼なりに誇りに思い、私がコミカルな歌を唄うのを賞讃してくれた。しかし彼の呑気な気質のせいと、経済的困難のために彼は私の教育について全く失念してしまったのである」

このようなディケンズの子供の時の経験を知った上で、『ピクウィック・ペイパーズ』を読みなおしてみると、驚くべき相似が見られる。すなわち、サム・ウェラーの父のなるべく早く仕事に就かせるのが一番とする教育方針は、十二歳で靴墨工場へと働くために送られた、ディケンズにとって苦い思い出を皮肉ったブラック・ユーモアなのであり、ピクウィック氏が、サム・ウェラーに初めて出会う場面においてサムが靴磨きであったという設定も、ディケンズが靴墨工場で働いていたという事実と関係があるように思われる。

そして、ディケンズの父の善良な一面はピクウィック氏へと投影されているのは明らかであろう。この善良なるピクウィック氏は、ディケンズの父と同様に負債者のための監獄に入れられているが、これも『ピクウィック・ペイパーズ』がディケンズの苦い思い出から生まれたものであることを明示している。