天才の軌跡 チャールズ・ディケンズと悪の萌芽

さらに彼の弱者に対する同情は、彼がペンシルヴァニア州の東部刑務所を訪れた時に会った独房に閉じ込められた囚人たちにも及んでいる。「私はその日、独房から独房へと歩いた。私が見たり、聞いたり、又は気付いたりした出来事は、いまだに私の心の中にその苦悩と共に在るのである」。

この刑務所では囚人はすべて独房に入れられ、面会はおろか、通信さえも許されていなかった。彼は単に興味本位でこの刑務所を見学したのではないのは、彼が囚人の感情移入をしようとしていたことから明らかであり、このことは次のような文章から知られる。

「私は彼等のいる状況に自然と生ずるような思考と感情が心に浮かぶようにしようとした。私は目隠し(この刑務所では囚人がどこに居るのかがわからぬように、独房に入れられるまで目隠しされていた)がとられた瞬間と、陰気な単調さに満ちた囚われの身となった光景を想像しようとした」

ディケンズの同時代人に『英雄崇拝論』で有名なトーマス・カーライルがいる。彼が生まれたのは一七九五年、没年は一八八一年であるので、ディケンズより七才年上であるが、死亡したのはディケンズの死より、十一年後のことである。

二人は親しく付き合っており、『二都物語』のまえがきに書いているようにディケンズのカーライルに対する尊敬は、並々ならぬものがあったのである。ここでカーライルを取り上げることにしたのは、ディケンズとの関係ばかりではなく、彼の思想家としての名声が当時、赫々としたものであって、この事実は、この時代の人々の心情を異なった面から観察することを可能にすると考えたためである。

カーライルの『英雄崇拝論』が、父親像の崩壊を描いたディケンズを歓迎した同時代の人々に受け入れられたのは矛盾であろうか。このような疑問が起きるのは、勿論、英雄という概念と父親像という概念には重なり合う部分が多いからである。

「あらゆる時代あらゆる場所に於いて英雄は崇拝されてきた。今後も常にそうであろう。吾等は皆偉人を好む、偉人を好み、敬い、その前に恭しく頭を垂れる。否、之を外にして何者に對してか吾等は衷心より頭を垂れ得ようぞ。ああ苟しくも赤誠の士にして、眞に己れに勝れるものに敬意を表することによって、自らのより高くなれることを感ぜぬものがあろうか。人間の心に宿る感情にしてこれよりも高貴な、または清浄なものはない」(老田三郎訳、岩波文庫、以下の引用も同氏の訳による)とカーライルが述べる時、彼は明らかに、理想的な父親像への彼の真情を吐露しているのである。

このような英雄に対する彼の思い入れにもかかわらず、彼の英雄論が過去の英雄にとどまるのは象徴的である。換言すれば、彼は同時代の父親像に対して、強い失望感を持っていたのである。

このことは、彼が議会を、まがいの貴族主義であると苦々しく軽蔑していたことによく表われている。またこれは『英雄崇拝論』の中にも言葉の端々から読みとれる。

たとえば、彼はチベットのダライラマの選定方法を、英国の方法、すなわち王の世襲と比べ、「だが、かかる人物を常に或る血統の長子と見做す吾等の方法より甚しく劣れるものであろうか」と嘆き、ノルマン人の祖先を自慢する貴族、上流人に対する皮肉を述べ、英国の王の栄光を、シェイクスピアの詩人としての栄光と比べ、王の栄光のはかなさを言外ににおわせる。