天才の軌跡 チャールズ・ディケンズと悪の萌芽

このことが最も明らかになるのは、彼の最後の講演である。彼はこれを「帝王としての英雄」と題している。

「吾等は今や英雄精神の最後の形式、いわゆる帝王の器なるものに到達した。人類の支配者、吾等の意志をしてその意志に服従せしめ、己れを空しうして随順せしめ、然もかくすることを以て己が幸福と感ぜしめる筈のこの種の英雄は、偉人中最も重要なる者と見做してもよい。彼は英雄精神の、すべての異なる形態の殆ど集粹である。僧侶であれ、教師であれ、苟(いや)しくも人間に存すると想像し得る如何なる世俗的、或いは霊性的威嚴もここに具現せられて、吾等を支配し、絶えず實際的(じっさいてき)教示を吾等に授け、日々刻々に吾等の為すべきことを吾等に告げる」

彼はさらに続ける。

「如何なる國に於いても、その國に生存する最有能の人物を見出し、之を最高の地位に登らせ、誠心誠意之を尊敬するならば、その國としては完全な政治が得られた譯である。投票箱や、議会の雄辯(ゆうべん)や、選挙や、憲法制定や、その他如何なる機構を以てしても、些かもこれを改善することはできぬ。かかる國は完全な状態にあり、理想的な國家である。最有能の人とは、又最も真心ある、最も公正な、最も氣高き人物のことである」

このように理想の帝王について述べたすぐ後に、彼は「悲しい哉、理想が間然する所なく實生活に具現せられることの到底あり得ぬということは、吾等の熟知する所」と言い、「たしかに、その有能者を求むべきして、しかも如何にしてそれに着手すべきかを知らぬということ、それは恐ろしいことである。これこそこの近代の世界が置かれている悲しむべき苦境である」と続けている。

カーライルは、ここではっきりと、「近代の世界」では、偉大なる父親の出現を希求しながらも、それが具現することが到底あり得ないことを示している。すなわち、カーライルもまた、実現不可能なことを知りながら、失われた父親像の再建を願っていたのである。

これ故、カーライルとディケンズは、このような共通の基盤を持っていたとも言えるのである。彼らは共に、現実に存在する権力を軽蔑していた。彼らにとって、これらの権力は脆弱にすぎるか、あるいは、倫理に欠けると見なされていたのである。