天才の軌跡 チャールズ・ディケンズと悪の萌芽

ディケンズの母は家計を助けるという意気込みで、大きな家を借り、学校を経営しようとするが、生徒は一人も来ないで、借金は大きくなる一方であった。このような状態で、つけで買っていた店への支払いも滞るようになり、食事も充分ではなくなるという有様になったため、彼の両親はディケンズを靴墨工場に勤めさせるのである。

彼の一日十二時間、週六日の労働に対する報酬は六シリング(年収約十五ポンド)であった。彼は靴墨のつぼの包装をしていたらしい。面白い事実として、この工場にはフェイギンという『オリヴァ・ツゥイスト』に登場するユダヤ人窃盗団の首領と同姓の先輩が働いていて、彼はディケンズを他の同僚からかばってやっていたらしいのである。

悪人としてフェイギンを描きながらも、前記したような、オリヴァが最後になって見せる、フェイギンに対する思いやりには、子供の頃、現実にかばってくれたフェイギンに対する気持ちと重なる面が大きいように思える。

この現実に存在したフェイギンは『デイヴィド・コッパーフィールド』の中では、スティアフォースとなって登場している。というのは、スティアフォースもまた、悪人ではあるが、幼いデイヴィド・コッパーフィールドを守ってやったからである。

ディケンズの週六シリングの収入は、言うまでもなく、家計を助けるには不充分であり、父のジョン・ディケンズは借金の未払いのために逮捕され、一八二四年二月二十日には、負債者専用の監獄へと送られたのである。ディケンズについて書かれたものを読むと、父親の監獄入りのことと、靴墨工場のことは、それが本のあとがきであっても、百科辞典の項目であっても、ほとんど例外なく記載されており、読者は少なくとも数年間入監させられていたような印象を持つかもしれないが、実際には三カ月と数日でしかなかった。そして靴墨工場で働いていたのは四カ月余りであった。

しかし、彼自身のこの時代の思い出は鮮明であり、伝記を読んでも、十二歳の少年の悲しみと困難が随分と長く続いたような錯覚をおこさせる。とはいっても、子供たちの中で最もみじめな経験をしたのは彼であった。というのは彼の姉は奨学金をもらって、王立音楽学院の寮生としてディケンズのような苦労は味わうことはなかったし、他の子供たちは、父と母と共に牢獄の中ですごしたからである。

この体験が、ディケンズに与えた影響は計り知れないものがある。私はこの体験がなかったならば彼は、たとえ作家になったとしても、同時代人からあれほど人気を得た作家にはなれなかっただろうと思うのである。