天才の軌跡⑥ チャールズ・ディケンズと悪の萌芽
彼の生誕地は英国の南岸にある軍港、ポートマスの近くにあるポートシイの町だった。彼の父は、この軍港にあったドックの事務所で支払いを担当していたのである。ナポレオンが、セント・ヘレナに流される途中、船はポートマスに寄港している。町の人々は船上のナポレオンを歓呼して迎えたという。
これは一八一五年の出来事であったが、ディケンズ一家はこの場にいなかったと思われる。彼等は一八一四年にロンドンに、一八一七年にはロチェスターへと父の転勤にしたがって住いを変えているからである。
子供の頃、ディケンズは病気がちで、ひきつけをよく起こしたため、活動的ではなく、運動は不得手であったようである。むしろ、彼は母親から読み書きを習い、本を読むことを好んだ。彼の母親は教養のある人で、ディケンズにラテン語を教えたという。
対ナポレオン戦争後の英国経済は不振であったが、定額の給料をもらっていた父は、デフレーションのため、むしろ余裕ができた。家には二人の召使がおり、夫を失った母方の叔母も一緒に住んでいた。このにぎやかな家で、ディケンズは姉の弾くピアノに合せて客好きな父の招いた人々の前で歌をうたったりしたという。
このように幸福な一家に翳がさしはじめるのは、ディケンズが九才の頃であった。「なまけ者のジョン」と、いつも母に言われていたように、ジョン・ディケンズは彼自身の母親にはあまりよくは見られてはいなかった。というのは彼は金銭面でルーズであり、女中として働いていた母親に金の無心をよくしていたからである。
彼が本当に怠けものであったかどうかについては疑問があり、彼は役人としてその職責をよく果たしており、酒好きではあったが、酒量を過ごすこともなく、ギャンブルに深入りすることもなかった。むしろ彼はよき夫であり、よき父であったと言われているくらいで、後年、ディケンズは父と一緒にドックに行ったことや近くの大きな屋敷の前を通ったりしたことをよく覚えている。
ディケンズの父の困難は、次々と生まれた子供たちと、客を招いてする散財のためで、彼は自身の母親以外からも借金をして、二人の義兄とは絶縁状態になっている。このような事情で、彼らはロチェスターでも環境の悪い住宅街へと移らなければならなくなり、一八二二年に一家は、父親の転勤にともない、ロンドンに戻っている。
当時彼の年収は二百五十ポンドだった彼のロンドンの北側にあった借家の家賃は年に二十二ポンドであったといわれているので、それほど悪い給料でもなかったと考えられるが、彼と妻の浪費癖はなおらずに、家計はますます逼迫し、ディケンズは、ロチェスター時代には行っていた学校にもロンドンに来て以来は行かせてもらえなかったのである。すなわち彼の教育は十才と七カ月まで、ロチェスター教会の牧師の息子がやっていた私立学校を退学したところで中断されたのである。