ある日、世田谷線の線路脇にしゃがんで一人で遊んでいると、遠くからこちらに歩いてくる父さんとサトシの姿が見えた。

久しぶりの父さんはニコニコと嬉しそうに、珍しく優しい猫撫(ねこなで)声でささやいた。

「どこに行ったのかと思って父さん探しに来たんだよ。母さんは今どこに住んでいるの?」

私が線路の向こう側にあるマンションを指差して「201」とだけ言うと、すかさず「父さんが迎えに来たからな、もう大丈夫だよ。今夜、一緒にみんなで帰ろうな」と、父さんは顔をくしゃくしゃさせながら言った。 

その夜はなんでもありの、文字通りとんでもない修羅場になった。

玄関のチャイムをしつこく何度も鳴らしたって、ドアは開けてもらえないことを悟った父さんは、外からマンション二階へよじ登るとベランダにもぐりこんだ。私はまだ幼くて事情がわからないタエを連れて、並んで寝室の隅っこに座り込んで、じっとしていた。

母さんと和田は慌てふためき、警察に連絡するかどうするか、家のお金を持ち出してきたことが窃盗に当たるかどうかなど、ひそひそ声で言い合いをしている。

何か硬いもので窓ガラスが激しく叩き割られ、砕け散る音が響いた。父さんは窓ガラスの外から手を突っ込んで鍵を開けた。部屋へ入ってくるなり、父さんは静かに言った。

「警察でも何でも呼べ。こちらにも言い分がある」 

和田は震えあがり、こう繰り返した。「別れます、奥さんとはもう別れますぅ。お金もお返ししますぅ! すみません、すみませぇぇぇん、本当に申し訳ありませんでしたぁ!」。

ボロボロ泣きながら床に頭を擦り付けて謝っていた。母さんのことなどひと目も見ずに、だ。そして慌てふためいて外へ逃げ出した。

父さんは間男を追わなかった。私は優しいだけの薄っぺらな男を初めて見た。和田の豹変ぶりはその後、私の男性に対する考え方について大きな影響を与えたと思う。

〈男という生きものを信じるって、どういうことなんだろう〉