とりあえず「主体」というものがあると何が変わってくるのか? 物理学では原子や分子、それらの組み合わせの物体を対象にする。

物は受動的で現象という形で観察できる。それに対して、生命というのは個体が主体というものを持ち、生きようと努力している。それは「現象」するのではなく「行動」するようになる。

行動するというのは「主体」の活動である。自ら判断して動くという主体的な活動である。よって、車は動くけれどもそれは「行動」ではない。それはボーリングの球が転がっても行動とはいえないのと同じである。一方、植物は動かないけれども、「行動」しているのだ。

少し余談になるが、最近読んでいたあるハードボイルド小説の主人公のセリフに次のような洒落たものがあって記憶に残った。

「車を運転しているときは自分が行動しているという意識があって、何時間続けざまに乗っていても疲れないが、自分が一つの物体として電車に揺られていると苛立ってくる」というのである。

物理世界には主体などというのは存在しないが、生命界には主体が存在する。これほど違う二つの世界も存在しないだろう! 動物の行動に見られる高度な合理性や合目的性は主体の活動としてみなければ考えられない。

「主体」というものをあらかじめ定義することはできないが、上述したように「認識」と「行動」がその最も特徴的な表れとして考えてもらえばいい。

単なる物質・物体は認識も行動もしないからである。だとすれば、なぜ、どのように代謝機能ができてきたのか、なぜ増殖するようになったのか、等々は実は本質的なことではないだろう。

なぜなら、これらは存続し続けようという「意志」つまりは「主体」があって初めて生じたものだといえるからである(ここでは「意志」も「主体」も区別していない)。

存続し続けることができるならば、別に他の方式のものでも良かったのである。例えば、やがて登場してくるであろう超生命はわれわれが今日知っているような細胞も代謝機構も持たないだろう。

もちろん、この「意志」も初めからあったわけではなく、まず、何らかの物的存在があって、その存在が徐々に「意志」を持つに至ったのだ。

細胞構造を持ったり、エネルギーを取り込んで代謝活動をするといったことはそのときの環境状況による偶然的なことが重なって生じたものである。

したがって、現在地球上で発生している生物や過去の単細胞などの遺物を分析してその由来を考えるというのは哲学的には本質的なことではない。

ではどのように考えていくべきなのか。これは生命以前の全くの物理的状態からいかにして自らを維持していこうという「物」が生じてくるかを考えることである。

動物は「動く物」と書くようにあくまで「物」ではあるが「自ら動く」という奇妙な性質を持つ「物」である。この「動き」は一見物理法則を無視したような外見を呈するが、あくまで物理法則に従っており、力学における運動や慣性の法則の高度な形態といえる。


1 Stephen Jay Gould (1941〜2002)アメリカの古生物学者・進化生物学者・科学史家・地球科学者。

 

👉『存在と差異』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】畳の上で変なことをしてくる兄…「息が臭い」と思ってると母がやって来た。…すると兄は慌てて手を離し、部屋から出て行った。

【注目記事】抱き上げられて寝室へ…彼は「泣かないで」と言いながらも、激しく求めてきて…指先で触れられるたび涙が止まらない。

 

ゴールドライフオンラインは、表現者を応援するウェブメディアです。
生身の人間が紡ぐリアルな言葉だからこそ、読者の心を揺さぶる力があると確信しています。
あなたも、"表現者"になってみませんか?
ゴールドライフオンライン編集部:glo_henshu@gentosha.co.jp