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全盲の豊松小さな旅
この源泉の対岸(白川右岸)の山林も井上家の所有で、戦後ここに自動車道が開通しこの道路沿いに白川を跨いで、ビニールパイプを敷設し冷泉を引き込んで、湯小屋を造作し沸かし湯温泉を、近隣の集落住民に開放していた。
この湯小屋は、我が家と井上家の中間地点約一kmの距離があり、井上玄徳さんが「ここまでなら盲目の宇兵衛さんも来ることが可能ではないか」とのお誘いがあり、一kmの道のりを一時間程かけて私が手を引き、豊松とこの温泉を訪れたのである。
この時の往復徒歩のことは忘却されているが、玄徳さんの孫の敏さん、憲夫さん兄弟が豊松のために湯を沸かしてくれ、豊松が入浴しこころづくしの昼食も御馳走になり歓待されたことは記憶に残っている。
祖父豊松が盲目となってから他家を訪問したのはこれが最初で最後であった。
菅谷不動尊
これは、六十年前、父と祖父の話である。
今年も田植えを無事終えた、六月二十五日。父應吉は、米坂線手ノ子駅から、三時間の鉄道旅で、新潟県菅谷村に鎮座する、菅谷不動尊大般若の日に合わせて、祖父豊松の眼病平癒祈願のため参詣に出かけた。
祖父豊松は、六十五歳の時緑内障で、近隣の眼科医に受診を繰り返したのであるが、一条の光も、届かない全盲となってしまった。そのため、父は眼病に霊験あらたかと言われる、菅谷不動尊に毎年詣でていた。
当時子供心に「医学で治療できなかった祖父の目が神仏に願掛けをしても回復は不可能だろう」と思っていた。
月日は流れて、祖父の三十三回忌法要を家長として、私が執り行い、父に故人の思い出を話すよう促した。
「皆様ご存知のように、父親は六十歳半ばで全盲となってしまいました。当時眼科の名医と言われておりました、米沢市の三条医院にも診察してもらいましたが
『豊松さんは緑内障で現在の医学では治療の方法がありません。最悪失明もあります。そして高齢での失明は、精神、肉体ともに負担が大きく失明後の生命は二、三年と覚悟したほうが良いかも知れません』と宣告されました。
そして半年後長井市の桑島眼科に入院中に全盲となりました。
私の願いは、幾ばくも無い父の余命が、穏やかな日々で過ごせるよう、菅谷の御不動様に、毎年願掛けをしたところでありました。
お不動様の御加護と家族とご親戚の温かい父への御心遣いにより、失明後も穏やかに十年間、命を長らえることができました」。
私は五十年もの間、父の祖父へのいたわりを思いやることなく、己の不明を恥じ、今でも父のあの日の挨拶を思い出す度、涙が出てしまう。