【前回記事を読む】オーストラリア旅行中、案内係の男が立ちはだかって店に入れてくれない…「ホテルに帰っていただけますか?」とまで言われて…

第一章 春

ネモフィラ

♫『ブルーシャトウ』(ジャッキー吉川とブルーコメッツ)

朝日新聞の「空を歩く」というキャプションのついた写真が目に留まった。茨城県ひたちなか市の国営ひたち海浜公園の写真である。

地平線の上方を空が占め、地面を覆うネモフィラが地平線に迫り、全体が落ち着いた水色のトーンの写真だった。

一面に植えられたネモフィラの小径を歩けば、花と同じ色の空を歩いている錯覚に陥っても不思議ではない。

若い頃は、私も空を歩いていた。飛行機に乗って。イギリスの航空会社の客室乗務員だったから、東京とロンドンを結ぶフライトが多かった。

入社してしばらくは、アラスカのアンカレッジ経由でロンドンに行った。少しして、ロンドン便はモスクワ経由になり、それまでより短いフライトで、ロンドンに着くようになった。

ある日、乗務後にモスクワで降り、英国人クルーと別れて、一緒に乗務したM子さんと会社指定のホテルのエレベーターに乗った時、二人の中年男性が乗り込んできて、言った。

「君達、同じ飛行機でしたね。夕食を一緒にどうですか?」

一瞬迷った後、私達は同意した。一人は日本人で、黒い毛皮のロングコートを着ていて、国連の外交官だと自己紹介した。

もう一人は、肌の色に近い、白っぽいツイードのコートを着た、長身のアメリカ人だった。ボルシチやキエフチキン等のロシア料理を注文して、日本語と英語での会話を楽しんだ。

四人の食事代は、日本人男性が払った。アメリカ人男性は謝意を表して、言った。「二人のマドモアゼルと次の便でロンドンに行くから、私が彼女たちに御馳走します」彼は約束を守り、私達の滞在しているホテルに迎えの車を用意した。それが黒塗りのリムジンだった。

前回のエッセイ「クンシラン」で書いた、ロンドンでの三人の食事に続くのである。その後、何度もロンドン便に乗務したが、二人の男性と再び会うことはなかった。

夏目漱石の『それから』に、君子蘭の記述があったのを思い出して、読み返している。角川文庫によると、主人公の代助の鉢植えの君子蘭が、縁側で散ってしまい、葉が茎を押しわけて長く伸びてきた、とある。

『それから』は君子欄だけでなく、庭の様々な植物が描かれている小説である。

モスクワ経由のロンドン便で空を歩いていた頃に、日本で流行していた歌の一つが『ブルーシャトウ』だった。その頃は、花に関心が無かったからか、ネモフィラを見かけた記憶がない。

(令和七年五月三十一日)