【前回の記事を読む】岩手・北上山地の人々と雑穀…現代から見れば「粗食」でも、おいしく食べる知恵があった。それは…

一、稲作以前、「粗食」の生きる力

限られた現金収入 

雑穀は金にならない

山内家のルーツは大川地区最西部の釜津田で、大広に移り住んだ。山仕事だけでなく耕地を求めたためだ。昭和6年。戦中戦後と雑穀栽培が続けられ、生計を支えた。といっても雑穀はお金にならない。自家消費するものだった。コメは戦後の配給制度で一般家庭に入る。コメは買って食べるものだった。

雑穀は傾斜地が多く、冷涼な気候の厳しい自然環境で育つ作物として貴重な生きる糧だった。中でもヒエは痩せ地や湿地でもつくれ、収穫した籾の貯蔵性が高く、雑穀の中でも安定した食糧だった。

雑穀文化を現代に継承しようと雑穀グループが活動していた。今も大広集落にグループがある。

大広集落の丘を登り始めるあたりに、穀物を搗(つ)いて精製する簡素な木製の農具がある。平成17年に文化継承の一環としてつくったバッタと呼ばれるもの。沢の水力で杵を上げ下げして臼の穀物を搗いて籾すりから精白、粉づくりまでこなす。雑穀を食べられるようにするには欠かせなかった。

平成17年に復活した大広集落の水バッタ

大川地区長田のふるさと伝承館に、水力の代わりに人力で搗くバッタ(踏みバッタ、唐臼バッタ)がある。踏みバッタは、義廣さんの妻、トヤさん(昭和22年生まれ)が子供の頃、姉と二人がかり、足で根気よく柄を踏んだ思い出深い農具だ。今も集落で使う人たちがいる。

そんな大川地区でも高齢化や後継者不足で担い手が減り、雑穀栽培は風前の灯。筆者はそんな時代に突入した頃この地区の人たちを訪ねるようになった。

畠山トキサさん(昭和3年生まれ)は大川地区で「雑穀の先生」と呼ばれ親しまれた。トキサさんの夫と義廣さんの父親は同じ頃、葉タバコを始めた。トキサさんは三十三年間葉タバコの生産に携わった。私が訪ねるようになった頃は雑穀栽培に移っていたが、すでにヒエの栽培はやめていた。

その理由をたずねると「島(シマ)立て」といって収穫したヒエを束ねて立てて乾燥する作業の負担が重いからだった。受け継がれてきた在来のヒエは丈が長い。「短い品種が開発されたそうですよ」と筆者は伝えたが、高齢のトキサさんの気持ちはすでに離れていた。

当時90歳のトキサさんは「肉とか魚とかおいしいものばかり食べるのはよくない。白いご飯も。雑穀がいい。おれ(私)は雑穀をご飯に入れて増やして食べている」と話した。

多くは語らないが、トキサさんにとって雑穀の中でもヒエご飯は決しておいしい食事ではなかったようだ。

しかし「おれは雑穀を食べて生きてきた」という言葉に、一言では語れない苦労や工夫をしてきたこと、雑穀のおかげで生きる力をもって暮らしてきたことの誇りのような心情が込められていると感じた。

戦後まもない頃「嫁いでまもなく一家のかまどを切り盛りしてきた。一町二反歩の畑をやりながら山に行って山菜をとり、秋はキノコをとってきた」

たくさん家族があり、食べ物がない時代だったから食べるために食料を確保するだけでも大変だった。そうした苦労の中核にヒエを中心とした雑穀があった。