【前回記事を読む】楽譜における強弱記号の解釈については、議論が尽きない。ブラームスやマーラーも、音響効果を想定することについて……
第1章 ベートーヴェンに思う
1 第九交響曲に聴く言葉の重み
“Vor GOTT”のティンパニーはディミヌエンドさせるべきか
これは、ひとつにはこの部分の和声進行【楽譜1】を観察すると、より納得できるように思う。フロイデの歌が始まってから、ずっとニ長調で通してきた音楽が、フェルマータのついた最後の一小節で突如、短三度上のヘ長調のトニカに転調する。
その和音はヘ長調のドミだけの音で構成されており、第五音ソの音はどのパートにも出てこない。
それで調性感の決め手である第三音のミの比重が増して転調を鋭く印象づける反面、五度の和音が持つ響きの厚みに欠けることになる。
ベートーヴェンがこの壮麗なフォルティッシモの締めくくりに、なぜ突如第五音を欠く和音に転調したのかということに注目してみるべきだろう。
つまり、この部分は、楽章の中の位置といい、和声の作り方といい、絶唱をもって音楽を切る場所ではなく、それまでの音楽の流れを突如の転調でがらりと変え、むしろ、その後の新しい発展につながる余韻を残す音場であると思える。
そのために、ベートーヴェンはあえて重厚な和音を避けたと見るのが音楽の流れに沿った自然な解釈であるように思う。
こういう終止にティンパニーのディミヌエンドをかけるというのは、まことにベートーヴェンらしい絶妙の演出と思えるのだが。
次に、シラーの詩とのかかわりで、この部分が占める意味について考えてみよう。
“Oh Freude”(「おお 歓びよ」)で始まったこの歌は、このあたりまでは専ら人間愛の歓びについて歌い続けてきた。後半男声が厳かに “Seid umschlungen Milionen”(「抱きあえ百万の人々よ」) と歌うところからは、神しろしめす世界である。
そこにおいてシラーの詩は、それまでの市民的人間愛から神の前なる人類愛の次元に高揚する。そして、その両部分を仲介し、つなぐ媒介役として、Freudeの合唱の最後に、天使ケループが神の前に(“Vor Gott”)立つのである。
その後に来るテナーの日輪讃歌のマーチ、激しく駆けるフーガ、6/8拍子ではずむ「歓喜の歌」に至る、Seid umschlungenの男声合唱の前までの推移は、天使に導かれて父なる神を求めてひた走る驀進の音楽、人間愛から人類愛への飛翔の場面という構成になっている。
この劇詩的構成の中で見れば、 “Vor Gott” の部分は、人間愛の讃美の究極に天使が登場し、舞台の様相が大きく展開し始める、舞台転換の場であって、何らかの定言命法的な結論を厳しく下す場面ではない。
ところで、ここに登場するケループという天使は、九段階あるとされる天使の序列の第二順位の天使で、よく宗教画でキリスト像のまわりに飛び交っている羽の生えた童子のような天使を想像するとよい。
英語の辞書で引いてみると、Cherubic という形容詞もあって、「天使のように無邪気な」とか「まるまるとして可愛い」という意味もあるようだ。こういうケループのイメージからしても、ここは肩に力が入りすぎてはいけないと思う。