【前回記事を読む】温泉街で夫が2人きりで会っていた見知らぬ女性…その女性の正体を知って、立ち尽くした。半年も前から、夫は…
倒れた夫と、もう一度の湯けむり
ある朝、倒れた夫
結婚して、4年が過ぎた。
よし子は52歳になり、雅彦は58歳になった。藤乃屋は紅葉のシーズンを迎え、連日の満室が続いている。よし子は女将として、雅彦は支配人として、宿のすべてを切り盛りしながら、忙しくも満ち足りた日々を送っていた。
朝は二人で温泉街を散歩し、夜は離れで一日のできごとを話す。当たり前の暮らしが、よし子にはまだ少し、夢のように思えることがあった。
(あの崖っぷちの日から、ずいぶん遠くへ来たものね)
ただ、この頃は一つだけ、気がかりがあった。
最近の雅彦は、無理をしすぎている。朝は誰よりも早く起き、夜は遅くまで帳簿に向かう。この間も、深夜の帳場で一人、机に突っ伏すように、胸のあたりをさすっているのを見た。
「少し休んだら」と言っても、雅彦は「大丈夫だ。繁忙期だからな」と笑うばかりだった。歳のせいで、少し疲れやすくなっただけだ、と。
(その「大丈夫」を、私は信じることにした。いいえ、信じたかった。雅彦さんが倒れるなんて、考えたくもなかったから)
けれど、本当は、気づいていた。この頃、雅彦の顔色がひどく悪いことに。階段をのぼる息が、前よりずっと荒いことに。気づいていて、見ないふりを、していた。
その朝も、雅彦は夜明け前から、帳場でその日の段取りを整えていた。
よし子が廊下で朝の支度をしていた時、帳場の方から、大きな物音がした。重いものが、激しく床に倒れるような音。
「雅彦さん?」
返事がない。胸騒ぎがした。
よし子は帳場へ走った。
