雅彦が、床に倒れていた。胸を両手で押さえ、顔は紙のように白い。額に、玉のような脂汗が浮いている。

(ほんの少し前まで、いつものように宿帳を広げていたはずの人が――)

よし子は、目の前のことが、信じられなかった。

「雅彦さん! 雅彦さん!」

よし子は震える手で、救急車を呼んだ。物音を聞きつけた節子が駆けつけ、若い仲居が玄関を開けに走った。

「しっかりして。お願い、しっかりして」

よし子は雅彦の手を握り続けた。冷たい手だった。その冷たさが、よし子の心を、さらに凍らせた。

やがて、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。

その音を聞いた瞬間、よし子の脳裏に、何年も前の記憶がよみがえった。前夫の正志を看取った、あの日々。痩せ細っていく夫を、ただ見ていることしかできなかった、あの無力な時間。病院の白い廊下。心電図の、規則正しい音――。

(いやだ。お願い、いやだ。また、私は大切な人を――)

膝が震えた。それでも、よし子は雅彦の手を離さなかった。離してしまったら、本当に、持っていかれてしまう気がした。

病院に着くと、雅彦はすぐに処置室へ運ばれた。よし子は廊下の待合椅子で、ただ祈ることしかできなかった。

白い廊下は、しんと静まりかえっていた。時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえる。

(あの時も、私はこうして、病院の廊下で待っていた。待ち続けた先に、別れがあった。今度こそ、お願いだから――)

どれくらい経っただろう。大学の授業を抜けて、美咲が駆けつけてくれた。

「お母さん!」

美咲の顔を見た瞬間、よし子はこらえていたものが崩れて、泣いた。

「お母さん、大丈夫。お義父さんは、強い人だから」

美咲は、何度もそう言って、よし子の背中をさすり続けた。けれど、彼女の手も、かすかに震えていた。

(この子も、怖いのだ)

よし子は、娘の手を、ぎゅっと握り返した。

長い時間のあと、処置室から医師が出てきた。