【前回記事を読む】ドサッと大きな物音が…夫を呼ぶも返事がなく、走って見に行くと顔面蒼白の夫が床に倒れていて…「いやだ。お願い、いや…」

倒れた夫と、もう一度の湯けむり

「大丈夫だ」という嘘

3週間の入院を経て、雅彦は藤乃屋に帰ってきた。

医師からは、当面の安静と、食事の管理、そして禁酒を言い渡されていた。「焦らず、少しずつ元の生活へ戻していきましょう」――そのはずだった。

ところが、帰ってきた翌朝には、雅彦はもう帳場に座って、宿帳を広げていた。

「何してるの!?」

よし子は、雅彦の前から、そっと宿帳を取り上げた。

「紅葉シーズンに、宿を空けられないだろう」

「旅館より、あなたの体の方が大事に決まってるでしょう。お願いだから、休んで」

それから、よし子は必死だった。雅彦を仕事に近づけまいとした。

重いものを持たせない。階段を使わせない。少しでも顔色が悪ければ、すぐに横にならせる。夜中も、雅彦の寝息が乱れていないか、何度も、何度も確かめた。

(雅彦さんを守りたい。ただ、その一心だった)

雅彦が庭に出ようとすれば、よし子はすぐに「上着を」と追いかけた。雅彦が新聞を取りに立てば、「私が行くから」と、先回りした。

よかれと思って。すべて、よかれと思って、していたことだった。

けれど雅彦にとっては、まるで自分が、何もできない病人なのだと、毎日くりかえし宣告されているようなものだった。二人の「思いやり」は、少しずつ、すれ違っていった。

旅館は、仲居の節子と若い従業員たちが、力を合わせて回した。東京にいる大輝も、仕事の合間を縫って手伝いに来てくれた。

藤乃屋は、雅彦がいなくても、ちゃんと回っていた。

それは、ありがたいことのはずだった。けれど――。