「俺がいなくても、旅館は回るんだな」

ある日、雅彦が窓の外を見ながら、ぽつりとそう言った。その声に、よし子は胸を突かれた。

「そんな言い方しないで。あなたが元気になるまでの、ほんの少しの間だけよ」

雅彦は、答えなかった。

本当は、よし子にも分かっていた。雅彦にとって、藤乃屋は、ただの仕事場ではない。先代から受け継ぎ、長いあいだ一人で守ってきた、生きがいそのものだった。その采配を、すべて取り上げられて、平気でいられるはずが、なかった。

(分かっている。分かっているけれど、私には、雅彦さんの体のほうが、何より大事なの)

日に日に、雅彦の口数は少なくなっていった。離れの座敷で、ただぼんやりと庭を眺めている。よし子が話しかけても、「ああ」「そうだな」としか返ってこない。

結婚3年目、旅館の経営が傾いた時、雅彦は同じように殻に閉じこもった。あの時と、同じ目をしている。

(あのときは、私が手を引いて、一緒に外へ出られた。でも今度は、どう手をのばせばいいのか、私には、分からなかった)

夫婦の会話は、いつしか、事務的なものばかりになっていた。

「薬は飲んだ?」

「血圧は?」

「散歩に行きましょう」

(私の言葉は、だんだん、看護師さんのそれに似てきている。妻としての言葉を、私はもう、思い出せない)

よし子は、何度も本当の気持ちを言いかけた。あなたを失うのが怖い。だから、無理をしないでほしい。けれど、言えなかった。「失うのが怖い」なんて言えば、雅彦をもっと追い詰めてしまう気がした。

ある夜、布団に入った雅彦が、天井を見つめたまま言った。

「正志さんは……君に、こんな思いはさせなかっただろうな。倒れて、迷惑をかけて。俺は、君の足を引っ張ってばかりだ」

よし子は、はっとして雅彦を見た。けれど雅彦は、もう目を閉じていた。その横顔が、ひどく寂しそうだった。

翌日、よし子は縁側で編み物をする義母・千鶴に、思いきって相談した。雅彦が、心を閉ざしてしまったこと。何を話しても、言葉が届かないこと。

千鶴は手を止めずに、静かに言った。