【前回記事を読む】夫が「ああ」「そうだな」以外喋らなくなった――義母に相談してみると「あの子の嘘を見抜きなさい」と。思い返せば…

倒れた夫と、もう一度の湯けむり

正志の写真の前で

その夜、よし子は、どうしても眠れなかった。

隣で眠る雅彦の寝息は、規則正しい。それなのに、よし子の胸は、ずっとざわついていた。「迷惑をかけてばかりだ」という、雅彦の寂しそうな言葉が、耳から離れない。

(あの言葉。雅彦さんは、本当は、どれだけ苦しんでいるんだろう)

雅彦の寝息を確かめてから、よし子はそっと布団を抜け出した。廊下は、しんと冷えている。仏間に入り、灯明をともして、正志の写真の前に座った。

写真の中の正志は、いつもと同じ、穏やかな顔で笑っていた。

「正志……私ね、また怖いの」

声を殺して、よし子はつぶやいた。

「大切な人を失うのが、怖い。あなたの時みたいに、痩せていく姿を、ただ見ていることしかできないのが、怖い。私、あの時、何もできなかった。手を握ることしか、できなかった。今でも、それが忘れられないの」

涙が、畳にぽたぽたと落ちた。

「ねえ、正志。私、どうしたらいい? 雅彦さんは、強がってばかりで。私の本当の気持ちなんて、言えなくて」

正志を見送った、あの春から、もう何年も経つ。それでも、大切な人を失う怖さは、少しも、薄れてはくれなかった。むしろ、雅彦という、かけがえのない人を得たぶんだけ、その怖さは、いっそう、大きくなっていた。

その背中を、よし子は見られていた。

廊下に、雅彦が立っていた。眠れずに目を覚まし、よし子の姿がないことに気づいて、捜しに来たのだ。仏間から漏れる、かすかな灯り。その中で、よし子が正志の写真の前で、肩を震わせている――。

その姿が、雅彦の目には、まったく違う意味に映った。

雅彦は、何も言わずに、そっとその場を離れた。