【前回記事を読む】2人で露天風呂の最中、夫が突然「言いたいことがある」と姿勢を正して向き直ってきた。「俺が倒れた時、実は…」

亡き妻の面影と、ふたりの湯けむり

夫が毎朝、通う場所

結婚して、3年目の秋を迎えた。

よし子は51歳になった。藤乃屋の女将として、毎日は穏やかに過ぎていく。山の木々が色づきはじめ、宿は今日も、静かに賑わっていた。

(あの崖っぷちの日から、私は、ずいぶん遠くまで来た。そして、ずいぶん、幸せになった)

夫の雅彦は、相変わらず口数は多くないけれど、優しい人だった。亡くなった前夫・正志の仏壇を、雅彦は「大切なお人だ」と言って、藤乃屋の仏間に、快く迎え入れてくれた。毎朝、よし子が正志に手を合わせるのを、雅彦はいつも、隣で静かに、見守ってくれている。

(この人と結婚して、本当によかった)

この秋も、雅彦は、よし子の好きな金木犀の小枝を、そっと帳場の花瓶に活けてくれていた。言葉は少ないけれど、そういう、優しい人なのだ。

そう思える日々のなかで――よし子は、ふと、あることに気づいた。

このごろ雅彦が、朝まだ暗いうちに、フラッとひとりで離れを出ていくのだ。

最初は、散歩だろうと思った。けれど、それは一日や二日では、なかった。三日、四日と、毎朝続く。雅彦は、よし子が目を覚ます前に出ていき、朝食の支度が始まる頃、何事もなかったような顔で、帰ってくる。

「どこかへ、行ってたんですか」

一度、さりげなく聞いてみた。雅彦は、少し間を置いてから、「ああ、ちょっとな」とだけ答えた。それ以上は、何も言わなかった。

(ちょっと、って……どこへ)

胸の奥に、小さな棘が、刺さったような気がした。

(雅彦さんが、私に隠しごとをするなんて……)