その朝、よし子は、いつもより早く目を覚ました。
隣の布団は、もう空だった。窓の障子を、そっと開ける。夜明け前の薄明かりの中、雅彦の後ろ姿が、山道の方へ歩いていくのが見えた。
よし子は、迷った。迷って――気づけば、羽織を引っかけて、離れを出ていた。
少し離れて、雅彦のあとを追う。落ち葉を踏む音を立てないように、そっと、そっと。
雅彦が向かったのは、山の中腹にある、小さな寺だった。よし子も、名前だけは知っている。古い、こぢんまりとした寺。
雅彦は、境内のわきの墓地へと、入っていった。そして、ひとつの墓の前で、足を止めた。
桶に汲んだ水を、墓石にそっとかける。供えてあった花を、丁寧に整える。そして、長いあいだ、深く頭を垂れて、手を合わせていた。
その背中は、よし子がふだん見ている雅彦の背中とは、どこか違って見えた。とても静かで――そして、とても、遠かった。
よし子は、墓石に刻まれた名前を、確かめる勇気が、出なかった。
けれど、確かめるまでも、なかった。心の奥で、もう、分かっていた。
(藤堂真由美。雅彦の、前の奥さん。大輝くんの、お母さん。そして――藤乃屋の、先代の女将)
よし子は、知っていた。雅彦が、前妻を、病で亡くしたこと。それからの長い年月を、たった一人で、この旅館を守りながら、生きてきたこと。出会った頃の雅彦は、よし子と同じ、深い喪失を抱えた人だった。だからこそ、二人は、惹かれ合えたのだ。
よし子は、雅彦に気づかれないうちに、そっと、その場を離れた。帰り道の、足取りが、やけに重かった。
その日の午後、よし子は、洗い場で野菜の下ごしらえをしていた古株仲居の節子に、できるだけ何気ない調子で、聞いてみた。
「節子さん。雅彦さんの、前の奥さまって……どんな方だったんですか」
節子は、手を止めて、少し驚いたような顔をした。それから、ふっと、懐かしそうに目を細めた。
「真由美さんね。それはもう、優しい、いい女将さんだったわよ。……そういえば、もうすぐ命日ねえ。雅彦さん、毎年この時期になると、少し、そわそわしてらっしゃるから」
命日。
