【前回記事を読む】夫が毎朝、早朝にフラッと家を出て、朝食前に何事もなかった顔で戻ってくる…後をつけると、小さな寺の墓地へ…

亡き妻の面影と、ふたりの湯けむり

桐箱の中の、もう一人の女将

それから、よし子は雅彦に何も聞けないまま、日々を過ごしていた。

「真由美さんのこと、聞いてもいいですか」――その一言が、どうしても言えなかった。聞いてしまえば、雅彦の大切な何かに土足で踏み込んでしまう気がして。

(聞くのが、怖い。でも、聞かないのも、苦しい)

藤乃屋で暮らしていると、真由美の面影は、思いがけないところに、ふっと現れた。

紅葉を見に来た常連の老婦人が、縁側で目を細めて言った。

「真由美さんの頃から、ここの紅葉が、好きでねえ」

よし子は「ありがとうございます」と微笑んだけれど、胸の奥が、しんと冷えた。

節子も、ときどき、真由美の話をした。

「真由美さんはね、こういうとき、こうしてらしたわ」

悪気はまったくない。むしろ、よし子のためを思って教えてくれている。それは、よく分かっていた。

(この旅館には、真由美さんの時間が染みついている。私は、真由美さんの座っていた場所に座り、真由美さんのしていた仕事をしている。私は……真由美さんの、代わりなのかしら)

週末、大輝が東京から帰ってきた。雅彦と真由美の息子だ。

夕食の席で、大輝がふと懐かしそうに言った。

「この縁側でさ、子どもの頃、母さんがよく絵本を読んでくれたんだ。雪の日に、ここで」

雅彦が目を細めて、「そうだったな」と、静かに笑った。