例えば、史上秀逸の物理学者であるアインシュタインの相対性理論に関わる等式E=M×Cの2乗(エネルギー=質量×光速の2乗)にしても、一つの物理法則としてそれにより世界の現象を良く説明し把握できていますが、なぜE=M×Cの2乗のような世界なのかを説明することはできません。

又、釈迦の発見した一切の存在は変化して止まることはないという諸行無常、一切の存在に不変の実体はないという諸法無我、一切の事物は固定的実体を持たず原因と間接的条件である縁の働きにより一時的に成立しているという因縁生起、そしてこれらを別の表現とした竜樹の「色即是空、空即是色」という認識がありますが、これは“世界(宇宙)はそのようにある”という立派な科学的知識です。

しかし、この知識にしても、なぜそのような世界なのか又なぜそれより違った世界ではないのかを説明するものではありません。

釈迦は、生・老・病・死をこの世はそのような世界であると看破しそのことを諦念した者ですが、なぜそうなっているのか、また宗教の言う不滅の霊魂や浄土(天国・楽園)のお話ではなく、老・病・死のない世界はないのか等の疑問やその解答を語っているわけではありません。

我々の世界は物質の世界ですが、理論的には、反物質の世界も成立しないわけではありません。反物質の世界が老・病・死のない世界の例であるかどうかはともかく、この世はその中に住む我々には諸行無常・諸法無我で老・病・死が当然の常識になっている世界ですが、それが常識ではない世界もあるかもしれません。

この世界のありようさえ判然としていない現在、この世界ではない世界の可能性迄考えても無意味なのかもしれませんが、このような問題の存在することをも視野に入れてこの世界のありようの解明を目指せばその進捗度は高まるかもしれません。

知るべきことが果てしなくある悩み、すなわち喜び・楽しみはつきないのです。