【前回の記事を読む】日本の天皇は外来王朝だった? 日本・新羅・百済の王がすべて"同じ民族"に支配された時代…その正体は、滅びたはずの……
第Ⅱ章 アジア世界の亡命地 日イズル国
アジア大戦記
唐は中国史上例がないほど勢力を拡大、西アジアにはアラブ勢力が拡大して、アジア世界の大膨張はピークとなり、日本列島にまで戦乱の余波は押し寄せた。
高句麗のヨン・ゲソムンこと大海人王子は、唐高句麗戦の為に東北の蝦夷らを徴兵し、中大兄王子は唐に滅ぼされた百済復興の為に和国兵を白村江に派兵し唐軍と戦った。
百済滅亡後の亡命人らにより、和国の政庁は三人に一人が百済人という状態になった。西アジアのペルシアがアラブ(イスラム帝国)に滅ぼされ、ペルシアの王族は中央アジアの「トカラ」に逃げ込む。
唐に援軍を求めたが、唐はアラブとの接触を避けこれを助けず、ペルシア王子はインドに兵を借りたが、彼らもアラブを恐れて逃げ出してしまった。
アフリカ・ヨーロッパに跨る大国アラブがアジア世界に東漸し、唐の勢力圏と近づいた為、トカラは大国間の火種になってしまった。
残ったペルシアの王族らは、唐・アラブどちらとも直接接していない唯一の国である日本列島へ逃げるしかなく、トカラから日本のトカラ列島へと逃亡した。
ペルシアの王族は、暫くトカラ列島に留まり、和国への亡命を願い出る。聖徳太子は元ペルシア王子でもあり、斉明天皇は同族のペルシア王族らを丁重に迎えた。
斉明天皇の後、百済のキョギ王子は天智天皇となり、その後の壬申の乱を経て、高句麗のヨン・ゲソムンは天武天皇となった。天武天皇は古事記・日本書紀の編纂を命じる。
唐に高句麗が滅ぼされた後、建国された渤海国のテジョヨン王と、唐を駆逐し朝鮮半島を統一した新羅の文武王(後の和国・文武天皇)、和国の藤原不比等は、三人ともヨン・ゲソムンこと天武天皇の息子であり三国の史書の編纂においては古事記・日本書紀同様の意向が働いていた可能性がある。