妻の力
妻とはフィリピンで知り合った。私より一年間先に来比し、フィリピン政府観光省で日本語教師として働いていた。恵まれた家庭環境で育った妻だが、断水や停電がしょっちゅう起こる生活にも順応していた。
タガログ語も少し理解し、現地の人々との生活様式にも馴染んでいた。私がビクビクして「これ食べてもお腹に大丈夫かな」と思うメニューも「おいしそう」と言って注文した。
娘を心配して彼女の母親が何度もフィリピンを訪れたが、娘以上の母親の適応能力を見ると、「ははー、これは母親譲りの適応能力だな」とわかった。
彼女の母は英語を一言も話さなかったがコミュニケーション能力は協力隊員を凌駕していた。なぜかジェスチャーと関西弁でフィリピン人や外国人と不思議にコミュニケーションが取れて仲良くなっていた。〝言葉の壁〞という言い訳は、無意識に人の心が作ってしまう心の壁かもしれない。
協力隊終了時の私は次の職は決まっていないし将来も見えていない。入学の確証もない、医学部に入って医師になりたい、という思いがあるだけの男だったが、何事にも全く物おじせず、困難にも動じないこの女性と生涯を歩みたいと思った。将来が見えない生活だったが明るく〝大丈夫〞と言って温かく私を理解し、精神的にも経済的にも常に支えてくれた。
医学部予備校は数学者の友人がいる京都に住んだ。寒い京都の冬。開け閉めのたびに凍るような風がピューピューと入ってくる衣料店で妻はパートタイムもしてくれた。近くのパン屋さんからいただいたパンの耳の袋をぶら下げて笑って帰宅していた。
数日後、私も「パンの耳をいただけますか?」と同じパン屋さんに行ったら、頭から足元までじろりと見られ怪訝な顔をされ、パンの耳は残念ながらもらえなかった。いつも一緒に歩んでくれている妻の支えがなければ今を生きる自分は存在しない、と感謝している。医師になったのは 35歳の時だ。