吉佐は草鞋の鼻緒を絞めなおした。竹筒の水を一口飲むと河原の土手に立ち上がった。竹筒にまだ残っている水を、草むらに向かってヒューと捨てた。道場の河原で汲んだ谷水だが、宿につけば温かい茶か湯を飲めるはずだった。

「冷たいでやす」

か細い女の声が聞こえた。吉佐は一瞬身がすくんだ。振り返ったが誰もいなかった。

「誰かいるのか。……何も気にすることはないな」

突然声を掛けられてやめた残り水も捨てた。

「冷たいでやす」

再びか細い女の声が聞こえた。

「どなたかいらっしゃるのですか。草むらに飲み水を捨てたのですが、もしやかかりましたか」

吉佐は声のほうに向かって声をかけた。辻君(つじきみ)か乞食(こじき)が、土手の草むらに横になって寝ていたのかと思った。

「誰もいないと思ったのですが、もし水がかかっていましたらご容赦ください」

吉佐は自分の不注意を謝った。返答はなかった。そのとき、小さな光が草叢からスーッと飛び立った。一頭(とう)の蛍だった。

「なんだ蛍か、おどかしやがって。蛍に水をかけて、なんで謝らなきゃならんのだ。蛍は水の中に住んでいるんじゃないか」

吉佐は蛍を睨みつけた。

「蛍とて生き物です。冷たいものは冷たく感じます。それも清らかな水ですからなおのことです」

草叢から飛んだ蛍は吉佐の頭の周囲をゆっくりと回り、女の声が聞こえた。それはこの世のものとは思えないような澄んだ声だった。

「盆も過ぎた今頃蛍が飛ぶなんて、季節がずれているぞ! 蛍は梅雨が明けるともう飛
んでないはずだ! 蛍の幽霊かそれとも人魂(ひとだま)か!」

吉佐は怒鳴ったが、少し怖くなった。成人の男とはいえ二十五歳手前、嫁をとったばかりの世慣れぬ男、肝っ玉はまだ十分にはすわってはいなかった。

「誰だい。いったいどこに隠れているんだい」

吉佐は見えない相手に震える声で怒鳴った。膝は既にガクガク震えていたし、怒鳴る声もうわずり、かすれ声になっていた。

「おほほほ……おほほほ……おほほほ」

女の笑う声が暗い川面に反射して響いた。

吉佐は逃げ腰になっていた。しかし、足の裏が地面にへばり付いて動かなかった。いや、もう自分の意思では動かせなかったのだ。

「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。まだ、おぼこい男の人」

女のなまめかしい声が吉佐の体に絡(から)みついてきた。

「いったい、おらに何の用だ。お金は持っていないぞ!」

 

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