いま考えるとそこは独特な場所だった。肩書きのない、アイデンティティのない、親のパラサイトという社会的底辺とも言える立場で、勉強だけを強いられる。不安とプレッシャーと孤独の毎日。どこに行っても何をしても構わない、でも、合格ラインに至らなければ、来年もまたこの場所でいまと同じ生活を余儀なくされる。

無限ループのなかで自分の裁量だけで判断し、行動する。応援してくれる人はおろか、見守ってくれる人もいない――家庭によっては、親が多少応援してくれるだろうけれど。何をするにも自己責任という環境に、早くも放り込まれるのが浪人生活だ。

何をモチベーションに勉強したかというと、それはもう、

「自分のようなヤツが普通の大学を出ても、たいした人間にはなれない。サラリーマンになって一生こき使われるのがオチだ。現にいま、こうして耐えがたい満員電車のなかを押し潰されながら通っている。これが生涯続くのだ。でももし医者だったら、少しは自分を開花させることができるのではないか」

という、何の根拠も脈絡もない、ただの幻想だった。

細かい背景は忘れてしまったけれど、そんななか、予備校で知り合った医学部を目指す三浪中の(予備校)先輩が〝したり顔〟で語ってくれたのが、「やっぱ努力なんだよな!」という一言だった ――(僕は面識がないけれど)その先輩のさらに1学年上の先輩が、努力を重ねて三浪の末、晴れて医学部に合格したのを間近で見ていたそうだ。

「だったら、オマエに一番必要な言葉だよ」と、一瞬突っ込みたくなったが、正論すぎる正論に、思わず「まあ、それはそうだよな」と感じた。当たり前すぎる当たり前に、素直に「自分にとっても、それしかないか」と思わされる言葉だった。

何の才能もない、親のコネもない、のんびりと惰性に任せて生きてきた18歳が、何かをなすには努力しかない。いまはとりあえず、本気で医学部を目指そうと思った瞬間だった。

翌春、僕はやっとの思いで医学部の端っこに引っかかった。だが、その先輩の合格の知らせは聞こえてこなかった。

 

👉『大人の肩書きをもつまで』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】彼には彼女がいるのに…抱き寄せられた。キスは首筋から胸の膨らみへと移り、甘ったるい声が漏れて…

【注目記事】マッチングアプリで出会った男性と初めてのデート。食事が終わったタイミングで「じゃあ行こうか。部屋を取ってある」と言われ…

 

ゴールドライフオンラインは、表現者を応援するウェブメディアです。
生身の人間が紡ぐリアルな言葉だからこそ、読者の心を揺さぶる力があると確信しています。
あなたも、"表現者"になってみませんか?
ゴールドライフオンライン編集部:glo_henshu@gentosha.co.jp