【前回記事を読む】シェイクスピア作品の登場人物には、善悪の両面を同時に見ることできる。実は夏目漱石にも…
第一章 沙翁の筆端神(しん)あるを知れり――『リチャード三世』『ジュリアス・シーザー』
かゝる美人を黒奴に殺さしむること能はず
では、この「除去法」とは何か。その説明のために『文学論』が持ち出すもう一つのシェイクスピア作品が『オセロー』である。
いわく、十九世紀初頭のフランスで『オセロー』を上演した際、「女房殺しの場に差しかゝりて突然聴衆の中より『かゝる美人を黒奴に殺さしむること能はず』と叫びながら短銃もて主人公を目掛けて狙撃したるもの」があったが(この狙撃者は「兵士」であったと森田草平宛書簡〔一九〇六・九・三〇〕にある)、普通そういうことは起こらない。
それは、観劇や読書は「直接経験」ではなく「間接経験」として受けとめられるために、前者の場合から一定量の感情が除去されるからで、それでこそ「面白き快感」をもっての鑑賞が成り立つのだ。
あの『リチャード三世』冒頭の長広舌で不快や恐怖を「賞嘆」の念がしのいでしまうのも、その種の除去、すなわち「自己関係の抽出」が働いてひとごと化しているからにほかならない。もし読者の目の前に現物のリチャードがいたとすれば、恐怖の苦痛がすべてで快感など望むべくもないのだ、というのが『文学論』の説明である。
同じことが、すでにその一部を引用した『リチャード三世』冒頭の長広舌にもいえる。
漱石はこれを読んで「こは悪漢なり、厭ふべき男なり」という「不快の感」が起こるとしても、他方に「かゝる剛情なる毅然たる不屈の眇(びょう)たる〔取るに足らぬほど小さい〕小丈夫の呑天の肝を賞嘆する念湧き出でゝ」その不快感は後景に引き下げられるという。
少なくとも「余はこれを一読して彼を嫌ふ念よりも、寧ろ彼を賞嘆することの数倍なるを自白するものなり」と。つまりリチャードは幕が開くや「悪漢」の姿と言葉をもって登場しながら、他方で「賞嘆」を抑えがたい傑物でもある、という大きな矛盾――「黒/白」の両面――を抱えた性格(キャラクター)としてたちまち観客の心を捉えるというのだ。
油断のならないこの劇作家によって創造された「厭ふべき男」リチャードは、開幕時にはすでに手をまわしてあった陰謀によって、まず次兄のクラレンス公ジョージをロンドン塔※1幽閉へと追い込む。
続いてランカスター家の葬列に現れると、あろうことか、かつて自ら殺害した皇太子エドワードの妻であった美貌の貴婦人アン(アン・ネヴィル)を執拗に口説いて、ついに結婚を承諾させてしまう。そこまでが第一幕なのだが、驚かれるのは、漱石の書き込みの実に半数以上(三〇点中一七点)がここに集中していることである。