父は、その会話を黙って聞いていた。
湯呑みを持ち上げる手が、一瞬だけ止まる。何も言わない代わりに、父の視線がふっと私に向く。そのときの、少しだけ悲しそうな目つきだけが、やけにはっきり記憶に残っている。
翌週から、そろばんの日は、父が会社から早く帰ってくるようになった。夕暮れの道、電柱の影に隠れるようにして、父は私を迎えに来た。作業着のズボンは、いつも油と埃で黒ずんでいて、袖口にはうっすらと鉄粉のようなものがついていた。
「散歩じゃ」
父は照れくさそうにそう言い張って、私の横を歩いた。歩幅をさりげなく私に合わせてくれていることを、子ども心にも感じていた。父は、仕事で失敗し、借金を抱え、家も土地も失った人だった。それでも私は、父を一度も恨んだことがない。
鶏を飼っていた頃、父が鶏を絞める時には、必ず私を見えないところへ連れて行ってくれた。
「お前は、向こうの部屋で待っとれ」
その声はぶっきらぼうだけれど、私の目や耳を守ろうとしてくれているのが分かった。
父は鶏肉を食べられない。私も、鶏肉を前にすると、あのときの父の背中を思い出してしまう。不器用で、怒鳴ることもあった人だけれど、誰よりも優しい人だった。私にとって、「父」という言葉の意味は、いつもその背中の温度と一緒に思い出される。
黒板の落書き
小学校の教室は、いつもチョークの粉の匂いがした。
黒板の端には、「今日の目標」と書かれた小さな欄があって、「元気なあいさつ」「なかよくしよう」と、先生のきれいな字で書かれていた。
その日、教室には、いつもと違うぴりっとした空気が漂っていた。
休み時間のはずなのに、やけに静かな笑い声と、チョークが黒板を引っかく音だけが響いている。
前の方の席から立ち上がって、黒板の前に集まっている男子たちの輪の隙間から覗き込むと、そこには一人のクラスメイトの姿が大きく描かれていた。
身体に障害のある子だった。誇張された顔、歪んだ手足。その周りには、「死ね」「化け物」といった言葉が、太い線で書きなぐられていた。
私は、基本的には大人しくて目立たない子どもだった。先生にあてられても、できるだけ短く答え、廊下を走ることもなく、通知表の「生活態度」の欄だけはいつも花丸だった。
なのに、気づいたら私は席を立っていた。胸の奥から何かが突き上げてきた。黒板消しを掴んだ手は震えていた。チョークの粉が舞い上がるのも構わず、「死ね」という文字を何度も何度もこすった。
「やめろよ」
「何しようと?」
男子たちの声が背中に飛ぶ。
それでも、腕が止まらなかった。涙が勝手にあふれてきて、黒板の白い粉と混ざり合い、視界を曇らせる。気がつくと、教室の笑い声は消え、ひそひそとした囁き声に変わっていた。
目立つことを何より避けてきた私が、教室の真ん中で泣きながら黒板を消している。それは、クラスの力関係の歯車を、がらんと動かすには十分すぎる出来事だった。
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