【前回記事を読む】「ハゲるかも」と思っていたら、本当に500円玉大の円形脱毛が…。開き直っていた私に、若い美容師が放った一言は……
第Ⅰ部 幼い日の痛みと揺れる青春
第1章 幼い日の傷
夕暮れのそろばん道
背中に、ふいに影がさした。
次の瞬間、後ろから腕が伸びてきて、私の口が乱暴に塞がれた。
「……っ」
喉の奥で声がつかえ、空気が逆流する。
鼻の中に、知らない大人の匂いが入り込んでくる。汗ともタバコとも違う、油のような、錆びた鉄のような匂い。
腕と胴体をがっちりとつかまれ、足が地面から離れた。かかとが空を切る。さっきまで自分のものだと思っていた地面が、一気に遠のいていく。
身体はどこかへ引きずられるように運ばれていった。
アスファルトのざらざらした感触が消え、砂利の音に変わる。そこからさらに、草の匂いが濃くなった。枯れた草が足首に触れ、チクチクとした感覚が、かえって現実味を帯びさせる。
時間の感覚が、そこで途切れている。
何が起きたのか、あのときの私は分からなかった。ただ一つ、はっきり覚えているのは、終わった後、股が焼けるように痛くて、自分の足でまともに歩けなかったことだけだ。
その日は、私の生理が初めて始まった日でもあった。
九歳の身体に起こった二つの出来事は、あまりにも重く、あまりにも突然で、どちらがどちらの痛みなのか、私には区別がつかなかった。
時間が経つにつれて、輪郭のぼやけた恐怖が、少しずつ形を持ちはじめた。
「何となく」から、「はっきり」と。
自分の身に起きたことが、頭の中で言葉になった瞬間、頭のてっぺんから足の先まで、冷たい水を浴びせられたような感覚が走った。
その日から、私は「どうやって生きようか」よりも先に、「どうやって死のうか」を考えるようになった。
母の言葉、父の背中
「そろばん、やめたい」
その夜、ちゃぶ台の前に座って、私は箸を置いたまま、勇気を振り絞って言った。
食卓には、冷めかけた味噌汁と、焼き魚の骨だけが残っている。テレビでは、どこかの芸人の笑い声が響き、部屋の隅では扇風機がカタカタと小さく音を立てていた。
母は、茶碗を持つ手を止めなかった。
「駄目よ。せっかく習わせてもらいようとに」
その声の調子は、いつもの小言と変わらない。でも、続く言葉は違った。
「恥ずかしいけん、誰にも言うたらいけんよ」
恥ずかしいのは、誰なのだろう。
悪いのは、誰なのだろう。
九歳の頭では、うまく整理できない感情が、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まり合った。
「私が悪い」
そのいちばん簡単な答えだけが、喉の奥に刺さる魚の小骨みたいに残った。