【前回の記事を読む】「昔の出来事を思い出しては……」ため息の裏にあるもの――私は彼の話を聞くことにした
第三章 憂愁
一.四月十三日(土)
あのそば屋では、彼は地元の中小企業の専務取締役だと言っていた。彼の立ち居振る舞いやしゃべり方はとても丁寧であったし、その仕事ぶりはわからないが、出会った頃から、彼はきっとしっかりと働いていることだろうと思っていた。
「そのうち何でも話し出すと思います。それも、堰を切ったように。きっと中山さんが嫌になるくらいに、心中を打ち明けるかもしれません」
彼は一度大きく息を吸って続けた。
「いや、先日出会ったばかりの見ず知らずに近い人にとって、そこまで言うかと引いてしまわれるくらいに、私は話し出すのではないかと思います。実を言うと、初めて車に乗っていただいたときから、嫌な気がしませんでした。中山さんは何だか包容力のありそうな方だなあと思いました」
その言葉に、私も俯き足元を見ながら、これまでの自分の人生を振り返って、友人、知人と腹を割って話し合ったことがあっただろうかと考えていた。
私は学生時代を一緒に過ごした友人たちや、駆け出し医師だった頃の同僚たちともすっかり疎遠になっていた。彼らとはさまざまなことを話し合ったし、いろんな秘密を打ち明けあったこともあった。彼らは今どうしているのだろうと思い出すこともあった。
もちろん、年賀状のやり取りは続いていたが、いつもほとんど「お元気ですか」という一文を見て、ああ元気なのだなと確認するだけになっていた。私が転居の案内状を送るときにも、彼らは何を思ってこれを手にするのだろうと思って書いたものだった。
職場では上司部下を問わず、同僚たちと侃々諤々(かんかんがくがく)議論することはあった。しかし、それも治療方針や今度の大きな手術をどうするか、などという必要に迫られたものであり、決して心中の吐露が目的ではなかった。誰かから自分の心中を打ち明けられるなど、いったいいつ以来のことか、まったく定かではなかった。
今は若者たちを中心に、SNSを通じてつながりを求め合っていると聞く。しかし、それは決して本音のぶつけ合いではないのだろう。多少の嘘や背伸びがあったとしても、お互いに生身でぶつかり合わなければ、本心にはなかなか気づきにくいだろう。
それでも文字や動画をやり取りするだけで、孤独感が癒やされたり、自己の存在を認識できたり、何らかの満足感や自己肯定感が得られるのだろう。
社会の第一線を退いた高齢者と、たぶん中年の後期を迎えた者が、腹を割って会話を交わす。期せずして始まったこの関係に、私にはいささかも不安がないわけではなかった。しかし同時に、わくわくと言えば大げさではあるが、期待感を感じている自分がいるのも間違いなかった。