だが、そんなリアクションをされても困る理由が夜深にはあった。

「いや俺、先輩の名前すら知らないんで」

素気なく言うと、一瞬、時間が止まったかのように短い沈黙が過ぎた。

「……あれ? あの時わたし名乗ってなかったっけ?」

「俺の名前だけ聞いて走り去っていきましたね」

顎に握り拳を当て沈思のポーズを取り、やがて「えへ」と朗らかな笑顔を見せる。

それで誤魔化(ごまか)されたりはしないのだが、なんかズルいと思った。

「九重(ここのえ)桜歌(おうか)です。よろしくね」

「……はあ」

「よろしくお願いします!」

なぜか元気な返事をする涼を尻目に、桜歌を睥睨(へいげい)する。

「と、とにかくこれから麻雀部に行こぉー!」

「おー! ほら行くぞ結崎!」

「なんでノリノリなんだよ……いやまあ、行くのはいいんだけどさ」

特に意見も述べず溜息だけ吐き、夜深は流されるがままその身を委ねた。

月峰高校には本校舎裏にあるグラウンドを挟むように建てられた二棟の部室棟がある。

夜深達は昇降口で外履きに履き替えると、本校舎を出て、部室B棟へと向かった。

桜の開花には冬季の期間中に低温に晒される必要があるらしく、暖冬の影響で今年は例年に比べて開花が遅れているらしい。そのため、四月上旬になっても蕾のままの桜を視界のそこかしこで見かけた。

申し訳程度に照りつく日差しを浴びながら、まだ不慣れな校内を桜歌について歩く。

「つかさ、九重先輩って超可愛くね?」

桜歌の背から目線は外さないまま、涼がそんなことを耳打ちしてきた。

どこか浮ついた、ウキウキしたような口調である。