桶狭間合戦直後の時期、『神武創業禄』は、水野信元と忠重は兄弟不仲となったとする記述が確認できる。また、水野忠重嫡男・勝成は、同様に父は兄・信元に不満があり、彼のもとから去ったことを公言している。
水野勢の一部には、揺れ動く指揮を取り続ける信元への不信があったはずである。水野太郎作清信、水野太郎作清久、水野忠重らには大いに不満があり、ついにこの不満から彼らは、刈谷城を去り兄信元とは別々の道を歩み始めている。
水野惣兵衛忠重殿、同左近清信(さこんきよのぶ)殿、同太郎作正重殿、その外村越又四郎 下野守信元(しもつけのかみのぶもと)殿と不和の事が出来て、刈谷城を立退き、親族の事ゆえ 皆いっしょに当家で引受け置かれ候(『片山家文書』「覚」)
『片山家文書』「覚」では、刈谷城を立ち退いた水野家の武将を親族のことだから皆一緒に当家で引き受けましたと記している。水野忠重、太郎作らが居候をしていた場所は、碧海郡鷲塚村間無山(まなしやま)(現碧南市二本木荒子)。忠重の姉・於亀が嫁いだ片山遵通の屋敷であった。
於亀の屋敷には、忠重と妻、親戚である水野清信、太郎作の親子と太郎作の妻、村越又一郎(むらこしまたいちろう)らが間借りして居候を始めたのである。忠重と太郎作の妻は、ともに都筑吉豊 (つづきよしとよ)を父としている。
おそらく姉が忠重、妹が太郎作清久(正重)の妻と思われる。『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には、忠重の嫡男勝成の母は「吉豊 (よしとよ)の女(むすめ)」3と記されている。忠重、太郎作と都筑吉豊の娘である姉妹がともに暮らし始めた時期は不明である。
1『改正三河後風土記』、成島司直、江戸時代後期。「石瀬・沓掛・十八町」による。
2 知立から刈谷に至る街道のうち、刈谷に近い辺りを十八町畷と呼ぶ。
3 『寛政重修諸家譜』、幕府編纂、一八一二年。同書によれば、水野忠重の次男がおり、嫡男勝成と 同母は都築吉豊の娘としている。
試し読み連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
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