【前回記事を読む】今川・松平元康(徳川家康)勢と激しく戦ってきた織田方・水野信元が、敵に対してとったまさかの行動とは
第二章 家康の自立と三河真宗門徒の蜂起
第一節 家康の三河支配への道のり
第二項 水野信元のもとを去る忠重と太郎作
桶狭間合戦で水野信元は松平元康を討ち取ることなく、大高城撤退に手を貸してしまった。しかし、信長は水野信元に甥・元康を早々に討ち取れと厳命した。
永禄三年(一五六〇年)六月十六日、松平元康勢は石ケ瀬まで押し出し、徴発をした。元康勢で真っ先に攻め込んだのは、松平信一、鳥居忠広、蜂屋半之丞(はちやはんのじょう)、矢田作十郎、大原惟宗 (おおはらこれむね)、杉浦吉貞、高木九助、大久保忠世であった。
水野方では、これに劣ることなく槍を合わせていったのは水野藤助、水野藤次郎、矢田伝十郎、高木正次、梶川五左衛門、清水権之介、神谷新七郎ら1であった。
家康勢の松井左近は眼を鉄砲に撃たれながら、その敵を討ち取り、大岡忠次は討ち死にし、大久保忠豊は敵の首を取った。
翌日、刈谷城に近い十八町畷に水野信元が出馬して合戦となった。両勢は力を尽くし、命限りの苦しい戦いとなった。家康勢は杉浦勝重、村越平三郎が討ち死にし、大久保忠勝、大久保忠豊、大久保忠世、太田吉勝らは首級 (しゅきゅう)を得た。
水野勢は追い立てられ、遂に刈谷城に逃げ込んだ。家康勢は討ち取った四十七の首級を十八町畷 (じゅうはっちょうなわて)2に吊(つ)るして並べ、この戦果をさらすことにした。(『改正三河後風土記』)
戦国時代末期、水野氏は緒川城のある知多半島北部と刈谷城周辺の西三河西部を支配する小大名であった。忠政の死後、後継者である信元は尾張織田家との同盟関係を明確にしてきた。
桶狭間合戦で松平元康の大高城撤退に手を貸したことは、まさに一時の夢のような出来事であった。信元は信長の命じるまま、松平元康との戦いを再開せざるを得なかった。松平勢に水野勢が追い立てられ、水野家中で犠牲者が増加していた。
水野藤十郎忠重 神君(家康)ノ伯父ナリ。兄下野守信元ト不和ニシテ刈谷ヨリ碧海郡鷲塚ニ至リ水野太郎作、村越又四郎ト居住シケルト云フ(『神武創業禄』)
三河に一揆おこり申す時分、拙者おや藤十郎(忠重)は、兄の下野(信元)に何やら不足を申し、下野内を立ち退き、三河鷲塚と申す所で人牢(ろうにん)をしていた。忠重とは相婿(あいむこ)(妻同士が姉妹)の水野太郎作という者もいた。
太郎作とは親類の関係にある。村越又一郎という者もいた。この者もともに鷲塚へまいり、三人は一緒に居候をしていた。(『水野勝成覚書』)