第三章 思いを形に 開業

海の家の「こばと塾」

ことばの教室、通常学級、特殊学級、養護学校など、学校現場で五年間を過ごした。しかし、臨時教員の勤務時間は数ケ月、長くても一年ほどで、間が空くこともあった。経験はすべて障害児教育の糧になったが、継続的に子どもを療育していくことはできない。自分の考えた療育をして結果を出すためには学校現場では限界だ!と思い、自分で開業することにした。

その時、私は四十歳になっていた。思い立ったら後先考えず即実行の私。誰にも相談せず、誰にも経済的に依存せず、自分のできる範囲で、できることをやろうと考え、とりあえず教室が開けそうな場所を探した。

当時、千葉市では大規模な埋め立てが進行中で海岸線は沖に追いやられ、かつてにぎわった「海の家」は浜辺に取り残されていた。その廃業した海の家をいくつかの団体がシェアして使っているという。賃料は安い。早速私も通勤しやすい「海の家」を見つけ、その中で一番広い部屋を週三日借りることにした。

入り口の小さな看板には「こばと塾」と書いた。(こばとは旧名のこばやししこからつけた)借りた部屋は広いが、かなりぼろかった。板張りの床は所々壊れていて、地面が見えたり、ミカン箱の板でつぎはぎしたりしていた。

それに時間借りということなので、毎回元通りに片づけなければならない。そこで折り畳みの長座卓三卓、床に敷く安いカーペット、教材を入れるかごなどを準備した。チラシは三十枚ほど作り、市内の自閉症団体や教え子に郵送した。

私の障害児療育の考えはシンプル。障害児が普通の生活を楽しみ、当たり前の生活が送れる療育をするというものだった。○○療法などと一つのやり方に偏ったものでなく、その子に合った療育・学習教育をして将来につなげることを根底に置く。

しかし、当時の風潮では、着席も続かないし鉛筆も持っていられない障害児に学習だなんて、と冷笑する空気もあった。当たり前のことを当たり前に、と言うのは簡単だが、自閉症児にとってそれが何より難しいのだ。

だが、障害児一人ひとりに合わせた手作り教材で学習をし、自転車や縄跳びも取り入れようと考えるとわくわくした。幼児期から公共の交通機関を利用し、親の付き添いなしで泊まりがけの合宿にも連れていくつもりだった。

常に気を張り巡らすことになるし、責任重大ではあったが、やらないという選択肢はなかった。学校で障害児たちと取り組んだ活動は何倍もの達成の喜びになって帰ってきたから。

 

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