親父のアメリカ留学
おふくろは教育熱心で、毎日ドリルをやらされた。国語に算数、理科や社会の問題集など、さまざまである。学校から帰るとその日にやるべきページが開いてあって、「これをやったら遊びに行っていいよ」と言う。よく駄々をこねて、床を転げまわった記憶がある。そんな私を妹が見かねて、「まだお兄ちゃんの扱い方がわからないの」と言っていた。
おふくろは、よく言えば「ものを大切にする」、悪く言えば「ものを捨てられない」タイプだった。お陰で、いまでも貴重なものがたくさん残っている。「臍の緒」、「幼稚園の出席カード」、「小学校の成績表」……。私が小学校五年生に進級した新学期の頃の作文が出てきた。題名は「希望」というものである。
「今日から、五年生だ、さっそく希望という作文を書くことになったが、そういわれてみるといったいぼくの、希望はなんだろう。やりたい事はいっぱいある。世界一周もしたい。飛行機にも乗ってみたい、アフリカへ行って、野生のトラやライオンやチーター、サルも見たい。南方の方へ行って、バナナをたらふく食べてみたい。科学が進んで月の世界に行けるかもしれない。
そうしたら、ぼくも、一回でいいから行ってみたい。でも、一番大切なことは、おとうさんがおるすなのだから、体を大切にすることと、勉強をまじめにやることだとぼくは思います。」
親父は昭和三十三(一九五八)年八月から、アメリカのイリノイ州立大学食品化学研究室に一年間留学していた。「親父がいない間、自分も頑張らなくては」と感じていた節はあるが、学校に行くのが楽しくて、父がいない寂しさは感じなかった。その分、おふくろが「家を支えなければ」と配慮をしていたのだろう。
女手一つでの家の切り盛りは大変だっただろうが、それを感じさせないおふくろだった。鈍感な息子である。そういう時代だったのか、親父と離れて母一人日本で頑張ったことについて、恨み言を聞いたことがない。
親父は留学後、世界一周の旅をした。現代なら夫婦で旅行をするところかもしれないが、家を長らく留守にしたうえ、ましてや自分一人で見聞を広げて帰ってくる父に、むしろ違和感を覚えた。しかし、帰国してもらったお土産で、そのような恨み(?)はすべて忘れてしまった。
某テーマパークのキャラクターの手巻きの腕時計、手品セット、カジノで使うようなトランプ、インド・タージマハールの大理石の置物……。このとき親父にもらった腕時計が最近出てきて、私の孫に見せることができた。
【イチオシ記事】2度目のキスは、あの夜よりも深かった…体の隅々まで優しく触れられて、声が漏れてしまった。体中に電流が走るような感覚がして…