祖父のあとにもう一人、祖父より10歳下の養子が入っている。戸籍には「養弟」とある。その人が寺を継ぎ、祖父は寺から追い出されたのだろう。
それできっと祖父は考えたのだと思う。この国ではなく、異国アメリカで一旗揚げてやろうではないかと――。祖父は、父が生まれて5ヶ月ほどして、35歳のとき、妻子を残して一人で渡米。その5年後、祖母と父とを呼び寄せている。父、5歳のときである。
次のことは、新聞でわかった。
祖父はロサンゼルスに長く住み、そこで亡くなった。当時は1世も多く、日本語の新聞の需要もあったのだろう。ロサンゼルスには、加州毎日新聞と羅府新報というのがあった。ともにマイクロフィルムがあることがわかったので、国会図書館に行ってみた。
予め郵便で利用者登録をして、返事が来てから実際に図書館新規受付窓口に行って、登録利用者カードを発行してもらった。これがないと、国会図書館では何もできないのだ。
これらの日本語新聞に、土地の名士祖父の記事もあるはずだ。羅府新報を調べたら、祖父の死亡記事が、亡くなった翌日の号に出ていた。また、通夜と告別式の案内はその二日後に出ていた。この案内には、私の母と私も含めて親族・友人・団体名など、21人の名前が出ている。両方の記事のコピーを頼んだ。
僧侶であった祖父が、なぜ米国に移民したのか、そしてそこで何をしていたのか知りたい。人聞きで確認はしていないが、メキシコの銀山開発にも関わっていたという。それで末娘の名前は、「銀子」と書いて、カネコと読む。
さらに、戦争中の日系人の強制収容所マンザナーの公式記録では、祖父の職業として営業・保険・株式・債券とあるからなんでもやっていたのだろう。また収容所でも、日系2世、3世の日本語教育にも携わっていたらしい。自分の子供たちの立派な日本語も父親の影響だったのだろう。
【イチオシ記事】2度目のキスは、あの夜よりも深かった…体の隅々まで優しく触れられて、声が漏れてしまった。体中に電流が走るような感覚がして…