購入の世話をしてくれた寺の女性から巡拝の概要と作法について説明があり、これは私の様子を値踏みしての説明で、大変親切な対応だった。
傍らでは、遍路が初めての中高年者の一団が、巡拝の作法や意味を寺僧に尋ねており、ここからそしてこれから遍路をはじめる彼らは、遍路に抱く思いに誤りないかを知りたい、また作法通りやりたいとの気持ちから、わらにもすがる思いで血相を変えて尋ねている。
その姿は純粋で、思いは真剣だと見受けたが、これに対し寺僧の対応は呑み込みが悪い相手を適当にあしらっているようで、彼らを前に歯をむき出して嘲笑うばかりで、善男善女の亡者を手なづける鳥獣戯画の猿僧正のようだ。
出立の準備は整い、私は早く歩き出したかった。だが、まずこの霊山寺で本尊に遍路結願の勤行をし、続いて大師堂にて同様の参拝をする。それが寺の女性が教えてくれた巡拝作法で、私は教えられた通りに参拝をこなして退出し、門前の道を歩き始めた。
喧騒に満ちた境内から外へ出ると、五月の風はゆるく吹いて、爽快感がある。虚構遍路に邪道も外道もない、あとはただ歩くだけだという思いが胸に迫る。大師とともに歩くという想像は確かに心を高揚させ、それゆえの歓びもないことはない。
つまり弘法大師との「同行二人」という教えは、大師はどう思うだろうなと考えながら自分を見つめて歩く、いわば大師と自分とを重ねて自分との対話において相手である自分を弘法大師に仮託するようにつくられていて、それが高揚感を生んでいる。
思い上がりが巧妙に認められた世界だ。五月の爽風が私を甘えさせているけれども、少なくともそのことには気づいた。
【イチオシ記事】店を畳むという噂に足を運ぶと、「抱いて」と柔らかい体が絡んできて…
【注目記事】「今日、主人は出張で帰ってこないの」ホテルの入口で一瞬ためらったけれど、夫だって浮気をしているのだから私だって…